おぢさんの覚え書き

2017/09/29(金)22:10

80年前より―その16(『近きより』をなぞる)南京大虐殺

近代(63)

近頃、北朝鮮ミサイル問題やら解散総選挙やらで慌ただしく、おぢさんの書き溜めた愚痴もすぐタイムリーでなくなって困る。「80年前より」を標榜するくらいだから時代遅れは気にせずに書き留めていこう。 9/15にJアラートが再び鳴った。日本のテレビラジオ局はもう着弾してるだろうという頃合いになっても延々とミサイル発射の情報を繰り返していた。それに引き換え、駐留する米軍人向けの放送(AFN)ではミサイル発射の速報はなく普段通り音楽を流していた。もし狙われるとしたら最優先のターゲットとなるべき米軍基地は完全に平常通りであった。AFNがAP通信社のニュースを伝える形でミサイル発射を報じたのは着弾してからかなり経ったあとだった。 日本から遥か遠くに着弾したミサイルの軌道からも分かるように、北朝鮮が相手としているのはアメリカである。日本は全く眼中にない。北朝鮮が暴発すれば当然日本国内の米軍基地も攻撃対象となるがターゲットはあくまでもアメリカである。まったくお呼びでない安倍晋三氏が何を勘違いしたのか、対話の必要性を完全否定し、圧力が全てであるという挑発的な演説をした。誰も本気で相手にはしないので心配の必要は無いが困ったものだ。 現代の問題児は北朝鮮であるが、かつての日本も大変な問題児であった。ちょうど80年前の今頃、日本軍は上海から南京を目指す戦いを8月から延々と繰り広げていた。1933年の国際連盟脱退から久しかったが、10月6には日華紛争に関する非難決議が国際連盟でなされた。 日本は​中国などすぐ片が付くと高を括っていたが、戦いは12月まで続くことになる。中国人に対する憎悪を燃やし、長期間続いた戦闘でストレスを抱えた兵士は何をおこなったのだろうか。 南京が陥落[1]してみると、急に今までの戦いが大戦争の序曲であったことがはっきりして来た。 上海での敵のトーチカにユニオン・ジャックを掲げさせていた英国、上海市街行進の時、日の丸の旗を往来に投げ捨てた英国、自国の小艇が誤認されて爆撃されたと言ってその騒ぎよう。 p.169 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第1号<一月号> [1] 一九三七年八月九日、抗日機運がたかまり緊張状態のつづいていた上海で、中国保安隊によって、日本海軍陸戦隊中尉大山勇夫が射殺されたことによって、同一三日には上海地区での日中両軍の熾烈な戦闘が火ぶたを切った(第二次上海事変)。日本政府は同年九月二日、戦線の華中への拡大にともない「北支事変」を「日支事変」と改称。同五日には日本海軍が全中国沿岸封鎖を宣告し、つづいて日本軍は、中国国民政府の首都南京を作戦目標とするが、対する中国側のすさまじい抵抗に思わぬ苦戦を強いられ一時戦況は停滞した。進撃を阻まれた日本側は兵力を増強し、同年一二月一三日、ようやく中支方面軍が南京を占領した。しかし、南京に入城した日本軍は翌年二月まで住民に対して略奪暴行虐殺を続けて、南京のみで約四万二〇〇〇人(大部分は婦女子)の中国人が殺された。また南京への進撃中、約三〇万の中国人が殺され、一万二〇〇〇の商家が略奪されたが(南京事件)、日本人がこの事件を知ったのは、敗戦後であった。​ 南京大虐殺については、旧日本軍以来の隠蔽工作が未だに国士業者によって継続されている。彼らの虚言は真面目に取り合う必要はない。 南京を攻略しても日中戦争は終結せず膠着し太平洋戦争の導火線となった。 小林よしのり徹底批判(2)偽りの「アジア解放」「大東亜共栄圏」(読む・考える・書く) 小林よしのり徹底批判(7)噂を根拠に中国軍を悪魔化(読む・考える・書く) 伝言ゲームの危険性(目からウロコの南京大虐殺論争) おとなしい米国に対しては誠に気の毒であったが、パネー号に対する我が海軍機の命中率[1]の偉大なことよ、高射砲の届かぬ高さから、二十数発の投下、全部命中、何という訓練の厳格さであろう。これを上海埠頭の旗艦「出雲」が四ヵ月間も碇泊しているのに、雨と落とした敵投下弾が、一個も中らないのと比較するとき、蒋介石の大言壮語の底が知らるるではないか。 p.170 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第1号<一月号> [1] 一九三七年一二月一二日、日本海軍機が、揚子江南東付近を航行中のアメリカの軍艦パネー号を中国軍艦と誤認して、撃沈したこと(パネー号事件)。日本政府は翌一三日、ただちに駐米大使を通じてアメリカ政府に陳謝。外交折衝の末、三八年三月二一日、アメリカ側はパネー号事件に関して賠償金二二一万四〇〇〇ドルを要求し、日本側はこれを承認した。​ 中国を侮蔑し、自国に自惚れた意見だが、当時の一般的な日本人の意見だろう。 にほんブログ村

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