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夏希ヒョウの世界へようこそ

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2020年08月09日
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テーマ:戦争反対(1185)
カテゴリ:政治経済
●印の2箇所が書き足した部分です。

昭和20年3月末、米軍が54万の兵力で沖縄に押し寄せました。片や日本は沖縄に10万の兵力を集め、本土への侵攻を食い止めようとしたのですが敗北は決定的でした。

洞窟(轟壕:とどろきごう)に隠れる住民たちの中には恐怖から(米軍に)投降したいという人たちが出始めます。すると日本兵が「よし、出たいやつは出ろ」と促すものの、出口に銃を据えて(構えて)、出てきた住民たちを撃ち殺しました。(投降した住民によって)情報が漏れることを恐れた日本兵は、住民の投降を許さなかったのです。
それから暗く閉ざされた空間で、住民たちは追い詰められていきます。やがて食料が尽き、飢えが人々の理性を奪い始めます。


そんなとき、兵隊が黒砂糖を子供から取り上げたら「これは僕のものだ」と兵隊に飛びかかって奪い返そうとしたら、その子供を一発で撃ち殺しました。黒砂糖が欲しいばかりに……。そのときから敵は米兵ではなく、友軍(日本兵)になったのです。子供の保護者も泣くことはできませんでした。泣いたら自分も殺されるのが分かっていたからです。


そのころ、住民たちの集団自決が相次いでいました。沖縄戦の集団自決に詳しい大学教授によると「(自決した)人数や件数は誰も分からない」
しかし、米軍の資料から確認できた南部での集団自決とみられる事例は少なくとも15件、121人。

親戚6人が車座になって、16歳の少年が手榴弾を握りしめていました。女性の一人は生後9ヶ月の赤ちゃんを抱いていました。

「みんないいね。死んでもいいね。何も悔いは残らないでしょう。じゃぁ、死のう。くっつかないと大変よ、死にそびれるよ、惨めになるよ」と言ったものの、手榴弾は爆発しませんでした。(当時の住民の証言)


6月23日、日本軍の組織的・戦闘終了。


本土決戦の時間をかせぐため、(沖縄の)膨大な犠牲を厭わなかった日本軍。軍民入り乱れる戦場で、攻撃をエスカレートさせていった米軍。その結果、住民の犠牲は膨らみ続けていきました。

……以上が、要所を抜粋したナレーションと証言です。


★6・23に戦闘終了といっても、それから更に原爆二発を落とさなければ結局、日本軍は屈服(投降)しなかったということでしょうか?
●しかし事実はもっと根深く、広島(8月6日)&長崎(9日)への原爆投下が日本を降伏させたのではなく、8月9日未明にソ連が日本に侵攻してきたことが直接の(投降)原因だったと、フリー百科事典『ウィキベディア(wikipedia)』に記されています。
日ソ中立を要請した日本にとって(つまり、ソ連に米国との仲裁を依頼するも)、頼みの綱であったソ連に掌返しをされたことで原爆とともに現実を受け入れ降伏するしかなかった。

★そもそも大日本帝国軍の上層部は、追い込まれた1941年当時の(日本の)情勢はあったものの、その追い詰められた状況を打破しようと真珠湾攻撃によって米国に戦争を仕掛けた。そしてドイツ・イタリアなどと同盟を組んで世界大戦となって日本国民を始め、世界の人々をを巻き添えにした。やがて石油(燃料)の枯渇や圧倒的不利な戦況になったら、(若者に)神風による敵艦隊への特攻隊を強要し、さらに原爆二発を落とされても尚、往生際の悪さを露呈した。

★もし原爆が落とされる前に降伏していたら、その核は朝鮮戦争で使われていました。(●日本に原爆を落とした当時のトルーマン大統領は、朝鮮戦争でも原爆投下を示唆していたからですが、日本における原爆被害の重大さが米軍を踏み止まらせたのかもしれません)






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最終更新日  2021年08月16日 00時17分18秒
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