神道、日本の神様が教えてくれること
「顔を洗い、歯を磨くこと、お風呂に入るのも禊」一日の穢れを落とし、身を清める。「生命あるものを生み出す 結びの力」むすびは、何かと何かを関連付けることを意味する。男女が結ばれて、夫婦になり生まれてきた子供は、「むすこ」「むすめ」と呼ばれ、お母さんの愛情たっぷりの「おむすび」に塩を振るのは、お清めの意味もあるということ。子供を大切に育てることを「手塩にかける」という。機械で作られた「おにぎり」と柔らかい母の手で握られた「おむすび」には明らかに違う何かを感じます。稲魂という神霊が宿っているともいわれ、母の愛が込められているとも言えます。日本人の職人がなぜこれほどもてはやされるのか。それは、職人の精魂込めて作った道具や芸術作品には魂が宿るからである。機械やロボットは確かに大量生産するには必要ですが、魂を宿らせることができるのは人間しかいません。石清水八幡宮の宮司さまが書かれた「神様が教えてくれた幸運の習慣」という本には、神道とは、神社とは、祭りとは…など日本人が当たり前に行っている習慣についてわかりやすく説明してくださっています。「神道」は、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教などのように「教」という字がつきません。それは、神道は「教え」ではないからだと言います。なので、特別な教典も教義もない。「道」とは、まさに生き方そのもの。「何かを信じる」ではなく、「何を行うか」が重視されるという。「信じるだけではなく、日々の行いが大切」日本人は、日々の生活すべてにおいて「礼に始まり礼に終わる」という、一見無駄な行為にも見て取れる些細な習慣によって、一所懸命生ききっているのです。柔道、剣道、茶道、華道など道とつく文化はたくさんありますが、日本の文化の極みとして存在し続けています。しかし、実は日本人の日々の生活習慣の中にもこうした「禊、礼儀、清め、感謝、祈り、尊び」などの行為が込められているのです。最近は言葉を発するのも面倒らしく、なんでも短くする傾向があります。日本に帰るたびに、荒い言葉遣いに驚かされます。日本では、言霊には想いや意識が根付くと信じられています。「言霊信仰」と言います。美しい言葉を使うと所作も美しくなります。宮司さまもおっしゃいます。「汚い言葉は不運を呼び、美しい言葉は幸運を招く」言葉には魂が宿り、口にしたことがその通りになる。(思い当たることがあるような…)神道は宗教ではない。だから、特別と思わず、神様は自然(じねん)の中にいらっしゃることを知ること。この本を何度も読み直していくと、いろいろな発見があります。「空気を読む」「空気が読める人」が優秀であるかのように、日本ではよく言われますが、結局は「空気を読んでいる」わけではなく、「周囲の顔色を伺っている」だけのような気がします。もちろん、そういう状況も必要とは思いますが、目に見えないものを感じる心は、もっと大事だと感じます。神社はそのために存在し、私達の神気に触れる感性を呼び覚ましてくれる場所なのです。