数学でつまずくのはなぜか
「数学でつまずくのはなぜか」小島寛之(講談社現代新書)以前も紹介した小島氏の、今度は数学本。代数、幾何、解析、自然数、無限の各単元で子供たちがどこでつまずくのか、どうしたらよいのかを解説。子をもつ親として読んだ(前半は)。P18 子供がつまずきやすいマイナスかけるマイナスがプラス。あちこちで見かける話題だけれども、ここでは方向ということを意識させる方法が。気球の動きの上下、時間の未来・過去、結果としての気球の位置の上下。物理としては単位の理解が欠落しているので少し気持ち悪いけれど・・・まあ分かりやすさとしてはよい。P15の終戦(でなくてもいいけど)を原点にしての年表の書き換えというのも「負」を理解させるのにはよいのかも。P36 この付近で「自然や社会の特定の事物たちには、『数理的に表現できる』という性質が備わっているのではあるまいか」、すなわちアフォーダンス的である、という筆者の持論が展開される。教育者としての立場としてはよく分かるが・・・。P46 (a + b)^2の展開式の「項2abを体感する」ための「十円玉の実験」。これは使えるかも。P57 √2や円周率πなどの無理数を真に理解させるために教育者がとらねばならない立場をヴィトゲンシュタインの「規則の恣意性」を持ち出し議論を展開。始めから実在する、というのではなく、どのように定義されてそれらが出てきたのかを理解させる方が重要である、と。具体的にはカントールでも持ち出さねばならないのだろうけど、中学生にそれが理解できるかな・・・。娘でテストしてみるか。P67 「原論」の功罪について。徳川吉宗の時代に「原論」が伝えられた時、「当時の日本の数学者たちは、『こんなわかりきったことを、なんでわざわざ、あらためて定義したり、証明したりする必要があるんだ』と考え、完全に無視してしまった」のだそうだ。でも子供の頃、原論(そのものじゃないけど、子供向けに書かれた本があったことを記憶している)を読んで何かしらの感動があったことも覚えている。最近は、ユークリッド的な幾何にはあまり時間を割かないらしいが、それはそれでちょっと寂しい気もする。P85 公理系を理解するのには必ずしも「ユークリッド幾何」が最適ではない、自分たちが数学を学ぶ前にすでにもってしまっている空間に関する直観がむしろそれを妨げるという観点で、筆者がおススメするのがホフスタッターの「MIUゲーム」。これによって「公理系」=「ロールプレイングゲームで決まったルールで武器を手に入れていくプロセス」だということが子供たちにすんなり入っていくらしい。言わずもがなだけどこの「MIUゲームは「ゲーデル・エッシャー・バッハ」の中でホフスタッターが「ゲーデルの不完全性定理」を理解させるために利用したもの。P116 英語のfunctionが日本語で「関数」になった訳。関「数」ということで本来のfunctionの広い意味が限定されていることを問題視している。中国の「函数」(発音はfunctionに似ているらしい)が元。P128 「幾何の証明を代数計算で実行する手法」、「線分の代数」を発展させるのに貢献したデカルトとフェルマーについて。ただし、先にも述べたユークリッドとの関連で言えば、最近の数学は、こっちに寄り過ぎている感があるような気がする。P142 ε-δのコーシー以前のニュートンやライプニッツが行っていた「超微小量eを土台とした魔法の算術」の復活、「超準解析」について。勉強したことないので分かりませんが、興味あり。P150 筆者の「微分とは結局『真似っこ関数』を作ること」という考えが、合成関数の微分の説明で結実する部分。これは確かに直感に訴えるものアリです。P156 この辺りから展開される自然数にまつわる歴史が面白い。ペアノ、クロネッカーと続く「数え主義」とフレーゲ、ラッセルの「集合算主義」の「戦い」が日本にも持ち込まれる。現在の主流は遠山啓によるものだそうだ。ペアノの自然数の公理に対するラッセルの反証はP188に見られる。P179 数学的帰納法に関連して「妖怪の問題」。そのまま全文掲載すると問題あるかもしれないので抜粋して。妖怪の集団がいる。すべての妖怪に序列がある。一番偉い妖怪を下克上して二番目の妖怪が倒せるのは、それで自分が一番に昇格した際、次に二番目になった妖怪が自分を倒さないと分かっているときだけという条件がつく。この時、百一匹の妖怪の集団では一番偉い妖怪は倒されるか否か。集団の数が偶数か奇数かで答えが違うとは思わなんだ。P193 「自然数は集合の集合である」というフレーゲ、ラッセルの論が展開されるところ。何となくはどこかで聴いたことがあったけど、ここでの記述はとても分かりやすかった。P200 さらにそのラッセルによる定義の自己矛盾について。「ある村に一人だけ床屋がいる。この床屋は、村人のうち、自分でヒゲを剃らない人たち全員のヒゲを剃り、他の人のヒゲは剃らない。さて床屋は自分のヒゲを剃るか剃らないか」というパラドックス。よく見かける問題だけど、今回はこれが自然数の定義の矛盾ということと関連してよく理解できた。さらにこの後、このパラドックスがフォン・ノイマンによって解決された、ということは恥ずかしながら知らなかった。P206 そのノイマンによる自然数の理解。0 = φ, 1 = {φ}, 2 = {φ, {φ}}...何かかっこ良いね。1 = 0 ∪ {0}, 2 = 1 ∪ {1}なんても書けるんだ。何がすごいって、こう定義するとペアノの公理も証明できてしまうということ(P211)。P217 ガリレオ・ガリレイがユークリッドの公理に矛盾するということで諦めたことを、カントールがやってしまうというのもよい。「長さの異なる二本の線分上の点の集合が同じ濃度」という話。P224 さらに進んでデデキント無限の話。無限に入れ子になっている「部屋の絵」の比喩は大変分かりやすい。そしてデデキント無限な集合が「私の思考の世界」というのも最高(P226)。もうこれはほとんど哲学。そしてここに至高のアフォーダンスを垣間みる著者。呼応がうまくいっていて、文章としても完成度が高いね。数学...深いなあ。