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2019年3月2日、上野公園の国立科学博物館に行った後、有名な西郷隆盛像、彰義隊の墓、寛永寺黒門跡を写真に撮りました。
【西郷隆盛像】 西郷隆盛は1827年に薩摩藩士として鹿児島に生まれました。藩主島津斉彬に重宝され、国事に奔走しました。朝廷の意を重んじて長州を敵としましたが、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、1867年12月に王政復古の大業を成就し、明治維新の基礎を確立しました。 その間、勝海舟などの要請を容れて江戸城の無血開城を実現し、江戸を戦禍から救いました。 岩倉具視、大久保利通等と意見が分かれ、鹿児島に帰郷し後輩の育成に努めました。その後1878年には西南の役で政府側と戦い、鹿児島市内の山城で自刃しました。51歳でした。 一時逆賊とされましたが、1890年、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈されました。 この銅像は、それに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同士と共に追慕の情を表すべく建立を計画し、明治26(1894)年起工、同30(1898)年竣工しました。彫刻界の巨匠、高村光雲の作です。 ↑ 西郷隆盛像。高村光雲作。 ↓ 敬天愛人。(西郷隆盛の「南洲翁遺訓」にある言葉)。 ↓ 西郷隆盛と銅像の由来が書いてある。 ↓ 西郷隆盛像近くの広場。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【彰義隊(しょうぎたい)の墓】 江戸幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻りました。慶喜の一橋家時代の側近たちは慶喜の助命を求め、1868年2月に同盟を結成し、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護なども目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもりました。 1868年5月15日朝、大村益次郎式の東征軍は上野を総攻撃し、彰義隊は同夕刻敗走しました。いわゆる上野戦争です。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されましたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付されました。 大墓石は1881年12月に元彰義隊小川興郷らによって造立されました。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣山岡雪舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻んでいます。 ↑ 彰義隊の墓。 ↑ 彰義隊奮戦之図。 小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵として伝えられている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【寛永寺黒門跡】 かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺(かんえいじ)の境内でした。公園入口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があって寺の正面入り口となっており、その先に「黒門」がありました。 幕末の上野戦争で、最も激しい戦禍が行われたのは、黒門付近です。戦いは主として銃撃戦でした。そのため、黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。 焼け残った黒門は明治40(1907)年、東京都荒川区の円通寺に移築されました。円通寺には彰義隊の墓所があり、黒門と共に幕末の歴史を今に伝えています。 ↑ 寛永寺 清水観音堂。 ↑ 寛永寺 清水観音堂。江戸時代寛永8年建立。 ↑ 黒門の説明。 左:「東京名所四十八景」「上野黒門前花見連」(都立中央図書館特別文庫室所蔵) 左: 円通寺に移築した黒門。 ↑ この壁泉は、かつてこの地にあった「黒門」を表現している。 ↑ 人形供養塔。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.29 18:08:53
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