カテゴリ:美術 / Art
2022年2月23日、東京国立博物館・平成館で「ポンペイ展」を見ました。
ポンペイのファウヌス家の居間の床を飾っていた素晴らしいモザイク画「アレクサンドロス大王とアケネメス朝ペルシャのダレイオス3世との戦闘」が、床にシートで貼ってあり、壁には映像が投影されて紹介されていました。 ーーーーーーーーー 紀元前333年に、イッソス(現在のトルコ南東のイスケンデルン)で両軍の戦いがあり、アレクサンドロス大王側が勝利し、ダレイオス3世側は敗走しました。 イスケンデルンはアレクサンドロス(イスカンダル)が由来の名前です。 モザイクでは、右側にアレクサンドロス大王の横顔、左側にダレイオス3世が描かれています。 私は「アレクサンドロス大王東征記(上)/アッリアノス著/大牟田章訳/岩波文庫」、「アレクサンドロス大王東征記(下)/アッリアノス著/大牟田章訳/岩波文庫」を持っており、イッソスの戦い部分も読みました。 「アレクサンドロス大王東征記(上)/アッリアノス著/大牟田章訳/岩波文庫」P117~155に、イッソスの戦いについて流れが書かれています。 ダレイオス軍は当初「ソコイ」という所におり、そこはアッシリア地方でも四方に開けた平野部で、歩兵の大部隊を展開させるのに持ってこいの場所でした。 アレクサンドロス側からダレイオスの元へ脱走してきたアミュンタスは、ペルシャ軍の数の多さと、装備の点からも、この場所が開けた土地で有利だと意見を言いました。 ところがダレイオスは、なかなか前進してこないアレクサンドロスは怖気づいてしまったと考え、軍を狭いイッソスの場所に進めてしまいました。 イッソスで開戦となり、人数の上ではダレイオス軍が圧倒していたにもかかわらず、隘路では戦いづらく、ダレイオス軍は総崩れとなりました。 ダレイオスは部隊の左翼がアレクサンドロスの襲撃を受けて真っ先に壊滅したのを見て、敗走する兵士の先頭集団に混じって、戦車で逃走しました。悪路になると、自分の盾、マント、弓を手放し、馬を駆って落ちのびました。 ダレイオスの母親、妃、子供達は捕虜となり、アレクサンドロスが例のマント、弓を持っていると聞いてダレイオスが殺されたと考えて泣き悲しんでいましたが、アレクサンドロスは部下を通じて、ダレイオスは存命であることを伝え、捕虜の家族は王族としての尊厳を保つようにすることを約束したそうです。 イッソスの戦いの2年後、ダレイオス3世は再びアレクサンドロス大王と戦います。これは「ガウカメラの戦い」と呼ばれ、「アレクサンドロス大王東征記(上)/アッリアノス著/大牟田章訳/岩波文庫」のP199以降に記載があります。 P238~239には、ダレイオス3世が亡くなり、アレクサンドロスはその遺体をペルセポリスに送り、王廟に葬るように指示した事が書かれています。 ダレイオス3世が亡くなり、アケネメス朝ペルシアは滅びました。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 「ファウヌスの家」の談話室(エクセドラ)のモザイク床。アレクサンドロス大王がアケメネス朝ペルシャのダレイオス3世を敗走させる場面を、縦3m超、横6m近い大画面に緻密に描写している。前4世紀末に画家フィロクセノスが描いた絵画をもとに制作されたと考えられている。さまざまな色の微細なテッセラ(加工した石や色ガラスの小片)を、モルタルの上に敷き詰めた大作で、制作には数年を要したと思われる。 ↑ アレキサンダー大王。 ↑ アケメネス朝ペルシャのダレイオス3世 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー ↑「アレクサンドロス大王東征記(上)/アッリアノス著/大牟田章訳/岩波文庫」 「アレクサンドロス大王東征記(下)/アッリアノス著/大牟田章訳/岩波文庫」 ↑「アレクサンドロス大王東征記(上)/アッリアノス著/大牟田章訳/岩波文庫」 ↑ アレクサンドロス大王胸像。 (ローマ時代模作、ルーブル美術館蔵) ↑ P26~27。 ↑ P27 イッソスの合戦の部分。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.03.07 05:52:45
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