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八の字の巣穴

八の字の巣穴

其の二の三「想月下浮雲」






 ゆらゆらと行燈に火が揺れる。
 日も暮れ、電灯もない部屋ではそれだけが灯りだった。いつの間にか運び込まれていた姿見が光を映している。
「ん……」
 揃えたままの足を横に崩して布団の上に座り、両腕を大きく上げて亜樹は大きく伸びをした。
 澱んだものが崩れてゆく感覚。そして力を抜くとともに流れてゆく。
 ここは寝かせられていた部屋だ。それをそのまま使わせてもらえることになった。
 静かだ、と思う。
 決して静寂ではない。風、そよぐ草、虫の細い声、もしかすると奏が廊下を駆けているのかもしれない足音。
 自分のマンションの方が聞こえてくるものは少なかったはずだ。
 なのに静かだと思う。
 もしかすると、夕飯のときにずっと緊張していた反動なのかもしれない。
 ご飯に味噌汁、鮎の塩焼き。手伝う間もなく既に食卓に用意されていたのは二人分。
 味はよく覚えていない。不機嫌な奏と差し向かいで、ずっとそちらに気を取られていた。
 無論、雰囲気に圧されて喋らなかったわけではない。気後れしながらも、家のことや学校のことを何度か尋ねてはみた。
 しかし何を訊いても梨のつぶて、掻き込むように自分の分を平らげると、奏はさっさとどこかへ行ってしまったのだ。
「失敗したかな……」
 亜樹はため息とともに呟く。
 考えてみれば、もしも家出をしているのであったりするなら、家や学校のことなど考えたくはないだろう。望まずに今があるのだとしても、今度は日常を思い出してしまうことによって恐ろしくなる。
 振るべき話題を間違えたのだと、後悔の念が過ぎる。
 長い黒髪の右の一房をくるくると弄る。本当は、考えるべきことはたくさんある。
 隠れ里と言われた此処は、では結局は何処であるのか。居候していてもいいのか、はたまた帰ってもいいのか。どうすれば帰れるのか、此処を出ると何処に辿り着くのか、あるいは何年も経っていたりはしないのか。
 夕飯を作ってくれたのが誰なのかも分からなければ、材料も何処から来たのか分からない。
 たくさんのひとがいるそうだから、明日にでも挨拶に回った方がいいだろうか。そのときは誰かに着いて来て貰った方がいいだろうか。手を煩わせるのは悪い気もするものの、案内して貰わないと地理も分からない。きっと迷う。
 桐が時折、自分のことについて何かを考えていることは気になっている。手にしている箱もだ。しかし訊きづらい。
 ここへ更に、黒衣の男のことや自分に何が起こっているのかまで加わるのだ。
 それでも一番に出てくるのは奏のことだった。
 何とかしたい。
 基本的には放っておくのが此処の流儀だとは言われても、気になる。
 しかし、無闇に探るのもやはり駄目だと思う。
 どうすればいいだろう。
 ゆらりと身体を揺らし、こてんとそのまま布団へと横向きに転がる。受け止めてくれたのは沈み込みそうなやわらかさ。太陽の匂いがないのは少し残念だ。
 大きく、ゆっくりと息を吐く。
 分からない。
 不安が湧き出す。そもそも、奏自身が望んでもいない世話を焼こうなど、そこから間違っているのではなかろうか。
 詮索は野暮、とは言いながらも桐も気にしていることは分かっている。むしろ世話好きの印象があるくらいなのだ、気にしていない方がおかしく感じる。
 それでも結局、一線より先には踏み込まない。
 倣うべきなのだろうか。それとも。
 目を閉じる。
 朧な明かりは、それでもわずかに目蓋を透して来る。
 寝返りを打ってそちらに背を向け、それから目を明ける。
 映ったのは自身の影。行燈の揺らめく火に応え、ゆらゆらと縁を見せない。
 どうにかしたい。するのが良いのかしないのが良いのか分からない。するにしても、では何をすればいいのかすら分からない。
 足踏み。踏み出すべき場所すら見えない。
 いっそあの黒尽くめのひとに会いたい。そう思う。
 会ったところで、奏のことに関してはきっとどうにもならないだろう。それに、またもえもいわれぬ不安の中に突き落とされるかもしれない。
 だが、逆にそれが力となるかもしれない。
「……訊いてみよう……」
 呟き、思い切る。
 いっそ、が抜けた。
 あの黒尽くめのひとに会いたい。
 思えばお礼のひとつも言っていないではないか。
「うん、そうしよう……」
 己を奮い立たせるために声として、亜樹は起き上がった。





 ゆるりと白刃が夜を撫でる。
 何事でもないかのように、居場所を作ることなく、ただただ静かに移ろってゆく。
 庭に出た亜樹が目にしたのは義輝の姿だった。
 昼とは異なりくすんだ白の着流しで、両の眼を伏せ、ゆるりゆるりと舞の如くに剣を振るう。
 速さはない。力強さもない。それでいて滞る時など刹那たりともなく、地を踏む音すら聞こえない。
 その姿をまなこに留めながら、亜樹は呑まれていた。息をするのも忘れた。
 右手を喉元に当てる。
 美しいと言えば美しくはある、恐ろしいといえば恐ろしくはある。しかしそれよりも、剣を振っているのだということを忘れそうになる。
 自分の心がよく分からない。舞のようだと思うもそれは違い、では何だろうと考えると何も浮かばない。
 と、朗々とした声が耳朶を打った。
「如何した、支倉亜樹?」
 動きがいつ止まっていたのかも定かではなかった。気付くと、義輝は既にこちらを向いていた。
 亜樹は両手を胸の前でぱたぱたと振る。
「えっと……用事があるわけではないんですけど……」
 黒衣の男を探しに来たことを忘れていたわけではないのだが、咄嗟に出たのはそのような言葉。
 義輝はそうかと頷くと、縁側の亜樹のところへ歩み寄ってきた。先ほどまでの雰囲気は消え去り、一歩一歩に重い音を伴っていそうに錯覚するほどの覇気が漲っている。その手にも腰にも、武器の類は何もない。
「え? あれ? 刀持ってましたよね……?」
「ああ」
 そのまま縁側に腰掛けた義輝の返事はそれだけだった。前へと視線を向けたまま、口を引き結ぶ。
 続きがあるのかもしれないと亜樹は立ち尽くしたままでいた。
 ごう、と高空で風が唸る。見上げれば、ほんの少しだけ欠けた月。
「……本当に、箱庭なんですね」
 呟く。
 覚えている限りでは新月だった。己が何日の間目覚めなかったのかは分からないが、まさか十日以上は経っていないだろうと思う。
 此処は本当に切り離された箱庭なのだと、昼にも肌寒さによって覚えたものに近い実感が改めて湧き出す。
 一片の雲が月明かりの中で朧に浮かんでいる。
 夜ではあっても黒ではない。雲ではあっても白ではない。たゆたい流れる薄紫にどこか黄金をまぶしたような、そんな雲。
「綺麗……」
 ため息とともに。
 膝を折り正座、腰を落ち着けて見上げる。
 手を伸ばせば届くように思えて、しかし届くことはないとても美しいもの。
「……ふむ」
 ちらりと義輝がこちらを振り返った。口の端にわずかに、男臭い笑みが乗っている。
 すぐにではなかったものの、亜樹も気付いた。
「えと……ごめんなさい……」
「……何故の謝罪なのか分かりかねるが」
 義輝の笑みに苦笑が混じった。
 あんまり喋らない感じだけどいい人だ、と亜樹は思う。笑い方がとても自然に感じられるのだ。
「ええと……義輝さんって剣術が好きなんですね」
 実のところ、何故謝ったのかは自分でもよく分かっていないので、話をずらす。
 亜樹には、剣はよく分からない。学生時代に剣道部を遠目に見たことがあるくらいが精々だ。
 それでも、呑まれてしまうほどの何か、きっと剣の腕を義輝が持っているのだとは思えた。
 しかし、義輝は小さく唸った。
「……ちと、違うな」
「え……?」
 亜樹は目を瞬かせる。当然のように頷くと思っていた。
 義輝は庭の方に向き直る。
「桐は俺を剣術馬鹿などと呼ぶが、俺は剣には拘らぬ。競うことに胸躍るものがないとは言わぬし、研鑽に興味はある。しかし剣は手立てに過ぎぬ」
 亜樹から見えるのは、横顔よりも後ろ姿と言う方が近い。表情は向こう側、口許が引き締められているのだろうということだけが感じ取れる。
「剣が向いてはいたのだろう。だが、俺の自由になる力もまた、剣くらいしかなかった」
 落ち着いた声。さして大きくなくとも朗々と響くのはいつものこと。
「剣くらい、ですか……」
 義輝の言葉を亜樹は繰り返す。昔の義輝がいかなる状況にあったのかまでは想像できないが、それならばとてももどかしい思いをしていたのではないかと、そんな気はした。
 やはり表情は窺えない。義輝は振り向かないし、亜樹も覗き込むような真似はしない。
 桐の言葉を思い出す。義輝は元は人間だったという。亜樹にしてみれば今も人間にしか見えないのだが、そう言っていたからには人間ではないのだろう。
 尋ねることはそれこそ不躾、なのだろうか。
「えっと……義輝さん……?」
「あの男のことなら俺も知らんぞ」
 まるで返事の代わりのようにして唐突に来た言葉。
 亜樹は小さく息を呑んだ。
「えと……わたし、訊いてましたっけ……?」
 脈絡がないばかりではない。確かに最初に訊きたかったのはそのことだが、口にはしていなかったはずだ。 
 義輝は再び腰を上げてから振り向いた。
「用もなく歩き回っているにしては妙に何かを持った顔をしている。あとは当て推量……いや、ただの鎌かけだ。桐やあの娘を探しているのであれば素直に訊いていよう?」
「そう……でしょうか」
 すぐには腑に落ちなかったものの、やはりそうなのかもしれないと思い直す。
 やはり、強く気負うところはある。意を決しなければ、容易くは声にならない。
 義輝は応えることなく、一度夜空を見上げると亜樹に背を向け歩き出した。おそらくは修練を再開するのだろう。
 邪魔をしては悪いからと、亜樹は声をかけない。
 しかし、背を向けたままで最後の言葉が届いた。
「俺にはあの男のことは解らんが、先の雲を美しいと思うのであれば、明日は夜明け前に起きるがいい」
「雲……?」
 雲そのものは分かる。先程よりも流れて月にかかり、輝きと陰影を強くして、異なる美しさを見せている。
 しかし義輝の言葉の意味は量りかねた。明日の夜明け前に何かあるというのだろうか。
 ゆるやかに往く雲を見つめる。
「……さっきの方がいいかな……」
 やわらかい方が好き。そう呟いた。











 近付いてくる足音に、奏は逃げた。
 この屋敷には、まともな足音を立てて歩く者など自分を含めて二人しかいない。自分ではないのだから、自ずと答えは知れる。
 身を翻し、今までいた風呂場の方へ。
 古い微かな木の香が、湯上りの身体を撫でては後ろへ置き去られてゆく。跳ねる濡れ髪が首筋に冷たい。
 逃げ場のなくなる風呂には行かず、その手前で台所へと折れる。
 誰もいない。格子から差し込む月明かりが奏の影を作る。
 ここならいい。いざとなれば裏口から逃げることも出来る。
「……逃げる必要は……ないのかな……」
 判断の前提を自ら否定し、立ち尽くした奏はため息をつく。
 しかし記憶にある数多の目を思い出した途端、さらに強くかぶりを振った。
 駄目だ、信じてはならない。
 止めていた足が無意識に動き出した。
 外気に身を晒す。
 月には背を向け、黒い山嶺を見上げる。ここは安心する。山が囲って閉じ込めてくれている気がする。
 玖珠たちだっている。あのしなやかな身体を抱いていると幸せになれる。
 何人か大人はいるが、そもそも人間ではなさそうだ。売り渡されることはないように思える。
 帰りたくない。思い出したくもない。
 それなのに、夕飯のときに思い出させられてしまった。
 いや、きっと悪気はなかったのだ。多分、心配していただけなのだ。
 そう判っているのに恨めしい。
「っ……!?」
 押し潰されるような重圧。溢れ出る吐き気。
 左眼を押さえる。
 起こりこそ唐突ではあるが、慣れてしまったことでもある。
 ただ、認めたくない。
 日増しに身体の調子が悪くなりつつある。何をするにもすぐに疲れてしまう。
 それが始まったのは、此処に来てからだ。
 息を整え手を離す。
「……ずっと、ここにいたい……」
 俯く。
 答えなどあろうはずもない。
 誰も咎めはせず、誰も許しはしない。
 ただ、夜であった。






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