「抗えない」息を止めた街を行く。 気は急くが、走りはしない。早足で歩く程度。 「奏ちゃん、大丈夫?」 振り返る。 自分だけならば、おそらく全力で走り続けても大丈夫だ。が、奏が保たない。 「……大丈夫よ、馬鹿にしないで」 不機嫌そうに返す奏の呼吸は、隠そうとしながらも乱れている。 乗り物がことごとく使えないというのが痛い、と亜樹は思う。この凍りついた街においては電車もタクシーも、そこに容があるだけだ。乗って移動するなどできたものではない。 事実としては、本当にあらゆる乗り物が使えないわけではない。自らこぎ動かす自転車ならば問題はないのだが亜樹には思い浮かばない。 そもそもこの世界が何なのか未だによく分かっていないということもあるが、誰かの自転車を勝手に持ってゆくという発想がないのも一因ではある。 ともあれ、どうしようかと考えた。 無計画だ、とはいつも言われてきたことではあるが、少なくとも今の状況は計画を立てるも何もない。向かうべき場所があるのではなく、ただ捕まってはならないというだけ。 手は思いつかない。あるのは自分が守るのだという決意だけである。 ただひたすらに歩くしかないのかもしれない。もしかすると此処から出ることができるかも、との希望を縁に歩くしか。 「大丈夫、あと少しだから」 自らも意識せず口に出た励ましの言葉。 ぎろりと睨まれた。 「嘘が下手すぎる。それとも、事実なんだったら証明してくれる?」 「え? えと……あ」 少し考えてようやく、自分の台詞がどれほど信じがたいものであるかに気付いた。 「えっとね、奏ちゃん……」 「弁解なんてしなくていいわよ。慣れてる」 あくまでも、奏の声は冷たかった。 「大人が子供につく嘘は嫌い。優越が見える。泡食ってつく無様な嘘の方がずっとまし」 「……そうかな……」 優越。そうなのだろうか。 いや、そのようにとることはできるだろう。保護しようという気持ちは、優越意識とまではいかずとも自分の方により余裕があると思っているからだとも考えられる。 ただ、そんなに極端に考えなくても、とは思った。 「ねえ、奏ちゃん……?」 気遣われての嘘こそが痛いこともあることを亜樹は知っている。失敗ばかりだったのだ、当たり前のように覚えがある。 だからこそ口を衝いて出ようとした言葉を、すんでのところで飲み込んだ。 自分が言うのは違うと、そう思った。 替わりに尋ねた。 「奏ちゃんには守るべき人っている?」 少し間が空いたがそれほど不自然ではないだろう。 「……別に」 奏のその短い返事には、いつものように素っ気無いのではなく、嘲笑うかのような色が混じっていた。 咎めるようなことはしない。亜樹は続ける。 「わたしもね、いなかった」 本当ならば嵐であるはずの街には静寂。静かな声でさえ、足音とともに確かな響きを返す。 「大事な人がいなかったわけじゃないの。ただ、わたしはこんなだから、親しい人は守ってくれる人ばかりだったのね。だからそれが当たり前だった」 学生時代も仕事のときもそうだった。でなければ、自分など早々に酷いことになっていただろう。 「……それで、一念発起してあたしを守ることにしたとでも?」 奏はこちらを見ない。顔は前へ、言葉だけをこちらへと向けてくる。 皮肉にしか聞こえないが、相槌を打ってくれるだけでも嬉しかった。 「どうなのかな……一念発起したような気はないんだけど」 「いい迷惑よ。恩を押し付けられるこっちの身にもなって欲しい。大体、偶然会っただけのあたしじゃなくていいじゃない。大事な人たちとやらを守りなさいよ。それとも誰でもいいの?」 言われると思っていた。亜樹は穏やかに眼を細める。 「誰でもいいわけないわ? わたし、怖いのも痛いのも嫌いだもの」 あんまり酷いことも言われたくないの、というところは口にはしない。 「基本的には、布団に潜るか逃げるのが一番目の選択肢なのね。だから今もこうやって逃げてるわけで」 「……じゃあ何であたしを」 奏の歩調が少し落ちた。声にも困惑が滲んでいる。 亜樹もそれに合わせて歩みを少しだけ緩やかにした。 「あのときは本当に咄嗟のことだったし……何でだろうね?」 「……もうちょっと自己分析とかしない?」 「ああ、うん……分かることも、あるのよ?」 そっと奏の手をとる。 「わたし、奏ちゃんのこと、好きよ?」 「……迷惑」 奏は振り払うことまではしなかった。握り返すことも、しなかったけれど。 並んで歩く。 「で、ありがたくも守ってくれるっていうわけ?」 「ねえ、奏ちゃん?」 不貞腐れたような奏の、名をやわらかく呼ぶ。 「抱き締めて、いい?」 「はあ?」 まったくの予想外だったのだろう。奏は思わずといった風に足を止めて見上げてきた。 亜樹はそれ以上待つことはしなかった。腰をかがめ、お互いの頬を触れ合わせるようにして、抱き締める。 奏は少し身じろぎしただけで、振りほどこうとはしない。 「……何のつもり?」 「なんとなく、思ったの。違うと思うの。わたしは怖がりなの」 奏の体温。奏の鼓動。 やはりそうだと思う。 「守るのはね、きっと……抱き締める方だけじゃないの。こうやって奏ちゃんを抱き締めると、わたしは安心するの」 何のためでもなく怖いことをするなど、自分にはできない。この腕の中の、自分が守れるのかもしれないぬくもりがなければ、こんな夜の中では何かあればすぐに立ち止まってしまう。 「守ってあげるんじゃない。守らせて……わたしに出来る何かがあるかもしれないことを確かめさせて。挫けてしまわないように」 「……っ!」 動揺を、奏は抑えられなかった。 嘘は判る。己を騙す嘘でも判る。漠然とながら浄眼で感じ取れるもののひとつであるということと、非常によく目にしてきたものであるからということとが教えてくれる。 だから本気であることを理解できてしまって、動揺した。 分かっていたはずではないか。この支倉亜樹に器用なことができるほど余裕のあるはずがないということは、あの世界でだけでも。 今は権力のことなど何も知らないのに、たかが十の子供の機嫌ひとつに心を砕いて、こんなことを本気で言う。 心を許したくないならば最初から話など何も聞くべきではなかった。嫌おうとしても、どんどん嫌えなくなってゆく。 「……馬鹿」 「ひどいわ、確かに抜けてるってよく言われるけど」 耳元で、ひどいと言いながらくすりと。 だから。 「馬鹿」 繰り返したそれは亜樹に向けたものであり、自分自身に向けたものでもある。 好きだと言われて、偽りのない好意を向けられてこうやって抱き締められる、心身ともに伝わってくるぬくもりが嫌いなわけはない。 もう駄目だ、きっと。 「分かったわよ……守らせてあげる」 「ありがとう奏ちゃん……」 少しだけ顔を離して、むしろ幼さすら思わせる笑顔で言われて、またぎゅっと抱き締められて。 ずっと見つからなければいいのに、と以前とは異なる気持ちから思う。 しかし、言っておかなければならないことがひとつあった。 照れ隠しでもあるのだが、大事であるにも違いないこと。 「それと……そろそろ行かないと、今あたしたち逃げてる最中なんだけど」 本気はよく分かったが、力量的には守ってもらえることをそれほど期待しない方がいいような気がした。 嵐など知らぬげな凍りついた世界を、再び二つの影が歩き出す。 |