其の五の三「『龍声』」視界を埋め尽くすのはマンティコアの群れ。 雪崩れかかられたならば、もうそれで終わりだったろう。 嵐の中だったとはいえ一体を相手としただけでも危うかったのに、それが五十体以上いる。食われる前に希凛が霊刀で一体くらいは屠れる、その程度の結果にしかなるまい。 「はっはっはー、俺ら絶体絶命やなー」 「悔しいけど同意せざるを得ないわね」 面白くなさそうに鼻を鳴らす。 これだけのマンティコアがいるのならば、わざわざ一体を囮として引き込む理由などない。まとめて襲えばそれで終わっていただろう。 面白半分で嵌められたのだ。 「うむ、ここはあれやな、夫婦漫才で時間稼ぎを」 「……誰が夫婦よ」 「しゃあない、なら普通に漫才を……」 「時間稼ぎしようとすることそのものが、あいつらには無駄だと思うけど」 マンティコアの知能は高かったはずだ。遊ぶにしても、せめて反撃を受ける心配がなくなってからだろう。 仕掛けたものかどうか。希凛は迷う。 うろたえても事態は好転しないということは今までの経験から嫌と言うほど知っているため奇妙なほどに落ち着いているが、打開策が浮かぶわけでもない以上は結果的に狼狽しているのと大差ない。 必要なものは、この状況を乱すための第三者よりの要素だ。そして、他力本願を臆面もなく持っておける図太さである。 「……無駄でもないか」 思い直し、呟く。 どくりと、来た。 何処かより鼓動のような規則正しい力が近付いてくることを、希凛は感じ取る。隔てるものは距離ではない。薄皮一枚、しかし自分たちでは越えることの出来ない壁の向こうから来ようとしている。 「何か来るわよ。事態がどっちに転がるかは知らないけど」 「日頃の行いの賜物やな。ま、悪い方に転がってもあんま変われへんちゅう気がするで」 「だといいけど」 風が巻き起こるでもない、地が揺れるでもない。だが世界が軋む。目の前の景色が歪んだ。 硝子を叩き割るような破砕音。マンティコアが口々に、美しい声でざわめく。 吹き付けてきた力の奔流に目が眩み、意識が遠ざかろうとするが、耐えた。この状況で気を失ったが最後、二度と目覚めることは叶わないかもしれない。 頭を振って靄を振り払い、眼を凝らす。 現れたのは、一人の少女と一人の女性だった。 亜樹は大きく目を見開いた。 目の前に現れた、正確にはその目の前に自分たちが現れたのであろう二人を覚えている。 奏を探していた男女だ。 送り返すにしてもよりによってどうしてこんな狙い済ましたような所に、とあの少年を恨む。あるいは本当に狙っていたのだろうか。 奏を後ろに隠し、腰が引けながらも声をかける。 「わ、渡しませんから……!」 「やー、それも困った話なんやけど、まずは周り見てみ?」 甲太が小さく肩をすくめた。 亜樹は言われたままに見回すなどということはしなかった。その隙に奏を連れて行かれるかもしれないということに思い当たらぬほどは抜けていなかった。 しかしそもそも見回す必要などなかったのだ。 ただ甲太と希凛を正面に捉えているだけで、視界内には無数の眼が爛々と輝いていた。 「……っ!?」 喉の奥で引き攣った声が鳴る。後ろに隠れていた奏が再び横にしがみついて来た。 『獲物が増えた』 『愚か者が増えた』 『馳走が増えた』 人喰いが笑う。とても愉快げで、それなのに言葉が流麗に流れることが一層不気味だ。 無意識に亜樹は腹に手を当てていた。二週間前、この化け物に貫かれたのだ。あのときの形容しようのない痛みを思い、腰が抜けそうになる。 「奏ちゃんのことは後回しや。何がどないなっとんや訳分かれへんけど、とりあえずこれ切り抜けてからにしよや」 ちょいちょいと甲太が手招きする意味は、すぐには理解できなかった。理解できた後でも困った。決心がつかない。奏を連れ戻そうとしている二人なのだ、その傍に寄っても大丈夫なのかどうか。 一見しては筋は通してくれそうな印象を受ける。が、ただでさえ自分の人を見る目には自信がないのに、状況までも判断を間違えると致命的となりそうなものだ。 本当はすぐにでも縋りつきたかった。何とかして欲しかった。怖いのも痛いのも真っ平御免だ。 それでも堪える。しがみ付いて来るぬくもりを思えば、何も考えずに誰かの言うなりになるわけにはいかない。 しかしそれではどうすればいいというのか。拒絶したところで代わる答えを亜樹に見出せようはずもない。 迷う時間はそれ以上与えられなかった。葉鳴り。亜樹の右側、体重などないかのように細い梢に巨体を乗せていた一体が跳躍した。 気付いた奏が振り向く。振り向いて、それ以上は動けない。左の虹彩には淡い水色が灯り、異形が迫るのを為す術もなく映している。 亜樹も凍りつき、動けない。 最も早かったのは甲太だ。滑るような動きで己が身を間に割り込ませ、八双に近い構えで待ち受ける。天敵である人喰いを相手にしても僅かな徴を見落とさず、先読みすらやってのけたのである。 <水妙剣>の極意に到達している甲太は、この体躯と速度ならばまるで幻術でも使ったかのように逸らしてみせる。御門八門八大将は、こと技の練りにおいては人の領域にあるならば歴史に名だたる剣豪にも劣りはしない。ましてや甲太であるのだ。 だが、今この場では行為そのものが無謀の極みと言える。 刃は触れることすら許されない。巨体はすり抜けるようにして、蠍の尾の針だけが肩口に突き立てられた。 マンティコアは遊んだのだろう。引き裂くことも出来たのだ。醜悪に笑っていた。 その驕りには報いが訪れる。 「吼えよ、大通連!」 鍔の無い無骨な大刀。 「踊れ、小通連!」 煌びやかな装飾の小太刀。 「貫け、釼明!」 冴え冴えと細い蒼月の如き刃。 一拍遅れた鈴鹿の霊刀が三方からマンティコアを引き裂いた。 しかし快哉も叫べない。 マンティコアの毒は麻痺をもたらす。動けぬようにして捕らえ、喰らうためだ。 食いしばった歯にも意味は与えられない。甲太は声もなく膝を突き、そのままうつ伏せに倒れた。 「……っ!?」 亜樹と希凛の言葉にならぬ声が重なる。 希凛は状況が一層まずくなったことを認識してのことだ。甲太の命に別状はないことは分かっている。 しかし亜樹には分からない。分かるのは倒れたことだけで、何の抵抗もなく倒れ伏す様は容易に死を想起させる。 ぞわりと、奥底から湧き出すものがあった。それは分類することのできぬ感情だ。恐怖であり、怒りであり、諦めであり、高ぶりと沈静が入り混じる未分化のものだ。 喉の奥で美しい啼き声がしたような気がした。 「手を貸しなさいっ!」 怒声にも似た希凛の声。亜樹は少しだけそちらに引き寄せられる。 希凛のまなざしは爛々と輝いていた。 「さっき私が感じていた力はあなたのもののはず。何でもいいから使いなさい、それを! ただ食い殺される前に!」 「そんなこと言われても……」 訳が分からないというのが正直な思いだ。何をどうしろと言うのか。 亜樹の惑いを読み取り、希凛はくちびるをきつく引き結んだ。 先ほど気付いていたことは、甲太には伝えなかった。甲太は能天気なほどに明るく多分にお人好しではあるが、必要とあらばそれを押し殺せるだろう。水門は毒も専門とし、御門八門中で暗殺も担う。水門大将は裏である<院>の更に暗部を統括する者でもある。 見たくないと、何故か思った。それとも、陰惨な手など使わずとも巧みに引き出させるのだろうか。 いずれにせよ、今は自分がやるしかない。 「……大通連」 大気を裂き、大刀をぴたりと突きつける。 <院>には権力の亡者もいる。あるいは驕り、僻み、争う。だが根底は失われていない。御門の技にせよ鈴鹿の血にせよ、力無き者を守るためにある。だから甲太は亜樹と奏を庇ったのだ。 そして、だから希凛は亜樹に刃を突きつける。目の前の者を助けるために、恨まれることを気にしない。 「使いなさい。訳が分からなかろうが何であろうが使いなさい。いいえ、私が使わせる」 抑えた声とともに切っ先が動く。亜樹の首筋にめり込む。薄っすらと赤が滲み、白い肌を染める。 「やめなさい!」 叫んだのは奏。何かに衝き動かされるように迸る。 「あたしが誰なのか分かってるんでしょ!? やめなさいよ! お祖父様に言うわよっ」 「逃げ出したくせに今更権力ごっこ? 笑わせるわね」 切っ先が更に少しだけ動く。赤が流れた。淡いベージュのセーターに吸い込まれる。 「第一、聞く必要もないわ、この状況で感情に任せた頭の悪い指図なんて。知ってるんじゃないの? 私の位階は上の座第六位、本部の長老方を除けば最高位。現場での戦闘のすべてに裁量権がある」 「でもっ……」 「黙っててくれる? あなたの相手は後でしてあげるから」 小通連も動いた。今度は眉間のすぐ傍に押し当てられる。 マンティコアは動かない。人間たちの様が余程愉快なのか、にたにたと眺めている。 「さあ」 奏を言葉と視線で黙らせた希凛は亜樹を促そうとして、気付いた。 亜樹はこちらを見ていなかった。先ほどまでの恐怖も戸惑いもなく、痛みを感じている風でさえなかった。 「これは要りません」 自分の血に濡れた切っ先を無造作に摘まんで引き抜くと、腰を屈めた。 奏をやわらかく抱きしめる。 「ありがとう、奏ちゃん。庇ってくれて」 触れたくもない祖父のことに触れてまで精一杯守ろうとしてくれたのだと理解した時、堪らなくなったのだ。 そして分かった。奏を守ろうとする思いだけが空回りしていた。それではいけないと思っているのにまたやってしまった。あったではないか、力ならば。 何をすればよいのか気付けば迷わなかった。思いは真実なのだ。 「わたしに任せて」 首につけられた傷が焼け付くように痛む。その痛みの奥を思う。 次はしゃがんで、傍に倒れている甲太の状態を見る。医学的な知識は何もないが、落ち着いて確かめれば生きているかどうかくらいは判る。 弱いものの、息はあった。 「ありがとうございます」 安堵とともに呟いて立ち上がり、希凛へと振り向いた。まだ大刀の切っ先は目の前にあったが、気にしない。 「やってみます」 大きく息を吸い、目を閉じる。髪から抜いた牡丹の髪飾りを包むように重ねた両手は喉の下。 あの紫の綺麗な珠。龍となるべく溜め込まれた千年の努力の結晶。如意宝珠。 思い出す。あの夜、黒衣の男の前にいた時の感覚を。 願った。強くではなく、確かでもなく、自然に思った。あの時は自らの生と夢を。今は襲い来る脅威を退けることを。 望みだけが此処に在るように、自分は世界に融ける。衝き動かされる想いではなく、論理によって作り込まれた決定ではなく、その両者の入り混じる意志でもなく、何も飾らぬ意思。 『支倉亜樹』 黒衣の男に名を呼ばれた。 低く重く、亜樹に響いた。 『想いのみでは意思ならず、決定のみでは意思たり得ぬ。しかし意思は如意宝珠を容易く動かすものではない。如意宝珠は想いと意志にこそ鋭敏に応える』 響きは声ではないのだろう。意思と意志はそれぞれ別物として入ってきた。 自分は間違っているというのだろうか。響くものからは意図を読み取れない。 普段の亜樹であれば、否定されればうろたえただろう。だが今は平気だった。こうしようと思う。意思を広げてゆく。 だからむしろ、続く響きにこそ乱れた。 『構わぬ。それでなお動かすならば。龍声までも呼び起こすならば。しかしそうでなくとも私にとっては好ましい』 思わず目を明ける。 それ以上、黒衣の男の響きはない。無論、姿のあろうはずもない。替わりに、自分の喉から自分のものではない声がいつしか溢れ流れていることに気付いた。 う、だろうか。る、だろうか。連なり、長く伸び、凍った夜天に広がってゆく。 これは何だろう。視界が揺らいだ。涙が浮いていた。この『声』を耳にしているだけで身体が痺れ、蕩けそうに心地良い。 今になって危険を察知し一斉に飛び掛ってきたマンティコアが、近付く端から次々と消えてゆく。抵抗は虚しい。『声』は逃すことなく、その奇跡をもって消失させてゆく。 最後の一体の姿がなくなっても『声』は止まらない。景色に罅が入った。夜が歪み、凍った光が真っ二つに裂け、硝子の砕けるような音とともに、強烈な風雨が叩きつけた。現実へと還ったのだ。 まだ『声』は止まらない。風の唸り方が変わったかと思うと頭上で雲に穴が開いて月が顔を見せる。次第に雨が止み、風も緩やかになる。穴は更に押し広げられ、雲はやがて千々に散った。 残ったのは、嵐の通り過ぎた公園だ。吹き飛ばされたベンチ、中身のぶちまけられた屑篭、枝の圧し折れた樹。濃い水と泥の匂い。 そこまで行って、ようやく『声』は止まった。 誰にも言葉はなかった。動きも、我に返った亜樹が髪飾りを挿し直したくらいだ。それでも自分自身にも状況がよく判らずに小首をかしげた。 「……うまくいったんでしょうか……?」 首には痕すら残っていなかった。 ジャンル別一覧
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