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八の字の巣穴

八の字の巣穴

「羅刹のごと・一」






 昼下がりの山、蝉の声の中、獣道を下る。
 常緑の木々に彩られたこの山は水門に与えられた生活と修行の場だ。
 <院>の一部門には、御門と呼ばれるものが存在する。
 八卦よりとった『天』『沢』『火』『雷』『風』『水』『山』『地』の八つの門に分かれ、武を追求し続けている集団だ。
 集うのは異能もさしたる霊力も持たぬ者たち。血と異能とを重視する<院>の中で、そのいずれも持たずして、修めた武のみで己が位置を築く。
 <院>において担うものは、最も単純な前衛戦力だ。人間の身体能力と鍛錬によって磨き上げられた技は、時間こそかかるが補充が利く。血に依存する異能を使う者とは一個人の価値に大きな差があるとされている。
 実力に比べれば地位も低い。<院>には上中下の座にそれぞれ第一位から第七位、計二十一位階が存在するが、御門のほとんどは下の座のそれも四位以下にしかなれない。
 それでも戦い、鍛え続ける。居場所を維持するためには戦うしかなく、死なないためには鍛えるしかないのだ。
「あらよっと」
 木陰から唐突に襲い来た白刃をかわすなり滑るようにして回り込み、甲太は持ち主である青年の首筋を人差し指でちょんと突いた。
 何事もないじゃれ合いのような仕草。しかし襲い来た白刃の前には気配などなく、突き出された切っ先は達人の業と呼ぶに値するものだったのだ。
 首を突いたのはどのような反撃でもない。反撃出来たということを示すだけ。
 しかし青年は止まらない。手の中に隠されていた長針が手首から先だけの動きで投射される。
 が、その先にあったはずの腹部は既に横に移動していた。
「こらこら、やられたんやから止まらんかいな」
 はっはっはー、と笑いながら甲太は青年の首を突き続ける。
「現実に反撃できてます!」
 今度は振り向きざまの掌底、と見せかけて袖に仕込んだ小柄を小指と薬指で引き出して繰り出してくる。
 甲太の手がかすんだ。鈍い音とともに、手刀が青年の頚動脈を強打する。内頚動脈と外頚動脈の分岐部付近には、頭部へ向かう血液量を血圧によって感知する受容器がある。外部から圧を加えることによってその受容器に錯覚させ、脳への血液量を減少させて一時的に意識を失わせるのだ。
 理屈そのものは単純だが、現実のものとするためには妙が要る。
 青年は小柄を手にしたまま、がくりと崩れ落ちた。
 甲太はぽりぽりと短い髪に指を突っ込んで頭を掻きながら背を向け、本来の目的地へと向かう。青年の心配はしない。する必要もない。
「ほんま、困ったやっちゃなー」
 青年の言っていることは分かるのだ。取り決めなどいくらしようが生きて反撃できる現実に及びはしない。
 分かるのだが、それでは芸がないというものだ。凄惨で容赦のない生死の様など、望まなくとも飽きるほどに体験できる。
 大気を裂く音。重なり合う木々の間を擦り抜けて背後より飛来した小柄を、甲太はひょいと避けた。
 気絶した振りをしていた青年が投擲したものだ。だから心配する必要などないのだ。
 それにしても腕を上げたものだ。あの瞬間に身体を微妙にずらして、受けながらも気を失わずに済んだというのは大したものである。
 ひらひらと手を振り、甲太はそのまま立ち去った。
 向かうは御門八門に与えられた八つの山に囲まれた<院>本部の更に中央、<院>の統括者である長老衆の御座だ。
 古い家並みの間を抜けてゆく。此処は言うなれば技術者の集落だ。戦闘技術であったり特異な鍛冶技術であったり、化生や妖に対抗するための術と知識の集積地なのだ。
 一方、異能を継ぐ家そのものは日本各地に散って地元の退魔を統括しており、何か大きなことがあればこの本部に集まって来る。
「おう、水門の大将、仕事ですか?」
 道程の半ばほどまで行ったところで声をかけられた。外部より食料などを運び込む役目を与えられている男だ。身長2m近い巨漢で、見た目は恐ろしいが気性はとても温和である。甲太にとっては個人的に頼みごとをするくらいに親しい相手の一人だ。
「じーさまズの顔拝んでも全然おもろないんやけどなあ……まあ、しゃあないとこやね」
 大袈裟にため息をついて、それから男と肩を組み、ひそひそと言葉を交わす。
「で、や。アレ手に入った?」
「まだですねぃ。ってぇか、好きだねえ、大将……」
「んなはは、残念。ほなな、おっちゃん」
 日焼けした顔で大きく陽気に笑って、巨漢から離れた甲太はまた軽快に歩き出す。じりじりと照りつける夏の太陽も何ほどのことかと言わんばかりだ。
 中心部に近付くにつれて他にも話しかけて来る人々が増えてゆく。皆、気安い。
 しかしそれも、本当に中心である屋敷の傍まで来るとなくなった。
 厚く高い塀は途切れなく続き、南の中央に存在する木製の巨大な門だけが出入り口だ。木製とは言っても<院>中枢の門がただの木で出来ているわけはない。霊木を幾重にも重ねて作られ、結界の要となっている。この門を通らずに内部へ踏み込もうとすれば、結界はそれを弾くのだ。
「安達甲太。長老衆のお召しで参上や」
 一度足を止め、門を守る二人に告げる。
 同じ顔をした二人は恭しく腰を折った。
「これは水門大将」
「いつもながらの水門大将」
 そして身体を起こすとにこりともせず続ける。
「相方は既にお着きです」
「貴方様もお早く行かれますよう」
「はっはっは、なら開けてもらおかー」
 まるで皮肉のようにも響く二人の淡々とした言葉にもからからと笑い、甲太は再び歩み始める。
 阿吽の呼吸で、手もかけぬ門が重々しい響きとともに手前に開いた。
 屋敷は二重の構造になっている。
 外界から中に入ると、日本全国から集められた情報を集積、あるいは実際的な指示を下すための部署が働く建物が渡り廊下で繋がれながら円を描いている。その円の内部にはもう一つ塀と門があり、松林があり、長老衆がいるのはその中心の館となる。
「さて、と……佐々木のじーさまんとこ行かなな」
 あくまでも形式的なものではあるが、上の座の位階を有する者が命を受けるときは長老衆と顔を合わせなければならない。御門の地位は総じて低いものの、例外的に各門の頂点、大将にだけは突出した位階が与えられる。
 上の座第七位階。上の座の第二位階から第五位階は長老衆のためのものであるから、上の座第七位階というのは力ある家の当主たちと肩を並べるほどの、最高位に次ぐ位なのだ。
 ほんの数日前に佐々木光芳の孫娘である奏を連れ帰ったばかりでもう顔を合わせることになるのかと思うと自然と苦笑いが混じる。甲太とて、佐々木翁は得意ではない。あの老人は凡人に成り下がった振りを絶妙に混ぜてくるのだ。
 それでも決して重くはならない足を内部門へと向けようとした、ちょうどその時だった。
「……あの……」
 蚊の鳴くような声がした。
 振り返れば、十歳ほどの愛らしい、優しげな面立ちの少女がこちらを見上げて来ていた。纏っているのはゆったりした感の強い、若草色のワンピース。あとは、肩の辺りまでの髪を纏めるでもなくただ額に巻かれた蒼いバンダナが印象的だ。
 だが、表情は硬い。不安に怯えているようにしか見えない。
 事実怯えているのだと甲太は知っている。打ち払うように、にぱっと笑った。
「おう、蓮花ちゃんやん。元気しとった?」
「はい……」
 蓮花はこくりと頷いた。向こうから声をかけてきて、手を伸ばせば届きそうなこの距離でも逃げずにいてくれるのは、何年もかけて親しくなったおかげだ。他の人間とはまだほとんど話せない。
「どしたん……とは訊くまでもないか」
 仕事で呼ばれない限り、蓮花が千堂の家から出てくることはない。そして声をかけてきたことを思えば、甲太が呼ばれた理由も同じ仕事なのだろう。
 ぽりぽりと頭を掻く。
「ほなとりあえず俺さっさと話聞いてくるわ。また後でな、蓮花ちゃん。食堂でおやつでも食いながら予定立てよや」
 この仕事の相棒が蓮花であるならば、老人たちに会うのはいくつもの意味において自分だけでいい。
 蓮花は俯いて応えなかった。拒否ではなく、自分が何を言いたいのか分からないでいるのだ。
 言いたいことを察することは甲太にも出来るわけではないのだが、いつものようにはっはっはと陽気に笑った。
「そない不安そうな顔せんでもいけるがな。俺に任せとき」
「……はい……ここで待ってます……」
 それが効いたのかどうかは判らないが、今度は首を縦に振ってくれた。
 甲太はひらひらと手を振ると蓮花に背を向け、中央へと向かう。
 蝉はここでもうるさい。
「水門大将?」
 門を潜るや否や横からかけられた声に甲太が驚くことは無かった。そこに人がいることは承知していた。
「考えてみたら希凛ちゃん、俺の名前呼んでくれたことあれへんなあ……」
「『水門大将』で判るでしょう? あなた一人しかいないんだから」
 涼やかな目許に僅かな険を乗せながらも希凛は名にあるように凛と答えた。
 佇まいにも隙はない。この暑いのに水干姿で額に汗の一粒も見えない。
「五代くらい代替わりしたら先々々々々代水門大将とでも呼ぶんか?」
「生きて代替わりできるつもりなの?」
「はっはっはー」
 御門八門の大将は、一つの山を戦場として先代に勝利することによって継承される。喉元に切っ先を突きつけられた状態からでも当たり前のように勝ちを掴みにゆける、意識を刈り取ったと思い込む油断を突いて引っくり返せる、そんな者に本当に勝つというならば、結果は死をもって初めてもたらされることがほとんどとなるのだ。
「俺は八人の孫に囲まれて畳の上で大往生する予定や」
「……そう、頑張って」
「ほれで、呼び止めた用事は何や? 奏ちゃんのことか?」
 口調も軽いまま、表情も軽いまま、甲太は本題に入る。
 この門もまた、外のものほどではないが結界を成している。外側から内側へ向けられた知覚や探査の術を遮断するのだ。内側で待っていたからには余人に聞かれたくない話があるということであり、甲太と希凛が共有する話題としてまず思いつくのは奏の問題だ。
 しかし希凛はかぶりを振った。
「そっちは謹慎中。何もないわ。私があの子の相談役になるのももう少し先ね」
 奏の帰還は、事実とは異なる流れで報告してある。甲太と希凛が障害を取り除き、西丸水紀が見つけ出したとなっているのだ。後のない水紀の願いであったということもあるが、それぞれが己が仕事を果たしたおかげでうまくいったという流れの方が人は納得しやすい。
 そして更に組み込んだ嘘として、奏は希凛を相談役とすることを帰還の条件とした、というものがある。
 これは通った。本当に相談役なる役職が存在するわけではないが、呼ばれたならば希凛は出向くことになる。
「ご苦労さんなこっちゃな」
「ああいう気の強い子は嫌いじゃないわ」
 ほんの僅かに笑みを浮かべてそう言う希凛の姿はとても様になっていた。
「希凛ちゃん、ガッコで下級生にお姉様とか呼ばれてへん?」
 希凛は肯定も否定もしなかったが、少し眉根を寄せたところを見ると少なくとも呼ばれたことくらいはあるのだろう。
「そんなことより、私が此処で水門大将を待っていた理由はふたつあるの」
 そのまなざしは厳しかった。窺うような色も交えながらも、僅かな隙も見逃さぬように。
 甲太はのほほんと笑った。
「一方は察するに、<獣>使いを嗾けたんは誰か、いうことか」
「そう。あれは本当に解せないわ。一体誰が何のつもりで」
「そやな」
 この国において<院>を掣肘出来るのは政府のみ、しかしそれにしても牽制程度が限度だ。決して<院>の方が強いわけではないが、互いになくてはならぬ相手なのである。あれほど正面から喧嘩を売る形にするはずなどない。
 政を担う者たちにも派閥があるため、<院>を攻撃することに意味を見出す輩も存在しているだろうが、そんな一派程度では話にならない。
 外国の組織に少々動きはあったのだが、関連は見られない。
 ならば。
「俺に訊いて来た時点で、ある程度の絞り込みは希凛ちゃんもできとると見たけどな」
「<院>内部にいることくらいはね」
 政府ではないなら、あとは<院>である。
 水門大将には緊急時の粛清権限がある。緊急ではなくともそういった話が回って来ることは多い。<院>内の誰かの仕業であれば甲太に知らされている可能性は高い。
「これだけの事態を押さえ込めるとなると相当な地位にいないと……長老衆の誰か? 口止めされてるなら答えなくていいけど」
「はっはっはー、長老衆やって佐々木のじーさまに敵うかいな。押さえ込める箇所はもう一個あるやろ。成功してたらの話やけどな」
「もうひとつ……となると現場だけど、そんなのいくらでも漏れるでしょう?」
 希凛は柳眉を寄せる。
 対して、甲太は困ったように笑った。
「絶対に漏れへんとまでは言わんけど、俺ら二人が死ねば基本的には潰せたで? あの街で水紀ちゃん以外の<院>の人間には一人も会うてへんやろ。ああ、死体はあったか」
「……西丸水紀が犯人だと言うの?」
 その言葉の意味を反芻し、希凛は理解する。
 確かに、水紀にしか会っていないし話してもいない。説明も資料も水紀から得たものだ。
 自分たちさえ死んでしまえば、あとはマンティコアに殺されたとでもでっち上げて終わらせることが出来る。
 しかし同時に驚いてもいた。だとすればあの憔悴した顔すらも演技だったのだろうか。
 その思いが弁護の言葉を選ばせた。
「でもそれは、そう出来る状況にいたというだけじゃないの?」
「確かにな。一応、まだ確定はしてへんよ。佐々木のじーさまに報告して、泳がしてある」
 蝉が鳴いている。門よりも外の声だ。内側にはいない。
 此処は風すらも凪いでいるのだ。まるで何もかもから取り残されたような、そんな錯覚すら覚えることがある。
 その中で希凛は甲太を見上げた。この分かり易そうでいてその実捉えどころのない、まさに水のような青年をじっと見つめる。
「一応なの?」
「犬の方のあのにーちゃん、片思い相手を助けるための情報が欲しかったらしいんやけど、<院>の情報収集力は要らんっぽい反応しよったからな。日本一やのに。おまけに水紀ちゃんはうっかり<獣>使いに逃げられてしまいました、と来たもんや」
「なるほどね。西丸水紀が依頼者なら、報酬がその情報ということになる、と」
 水紀はその鏡によって<院>でも屈指の探査の腕を持つ。無論のこと、彼女だけではさすがに<院>の総力に及ぶべくもないが、それでさえ充分なはずだ。
 逃したというのも不自然だ。彼女たちは戦闘が専門ではないというだけで、充分な実力を有している。<獣>ならばともかく、<獣>使いに後れをとることはまずあり得ない。
 甲太が不意ににやりと笑った。
「それ以前に、どうも佐々木のじーさまは前から水紀ちゃんを何や怪しいと睨んどったふしがある。やとしたら恐ろしもんやな、そんな相手に大事な奏ちゃん探させるあたり。あるいはじーさまが狂言回しかもしれへんけど」
「佐々木翁の考えは私には理解しがたいわ。割とあなたもだけど」
「俺は単純なんやけどなあ……基本は美人さんとか可愛い女の子とか大好きなだけやで?」
「はいはい」
 おざなりに希凛は戯言をいなした。
 深い溜息をつき、改めて甲太を見上げる。
「次は千堂蓮花についてのことだけど」
「ああ、蓮花ちゃんか」
 なるほどと甲太は苦笑した。思えばそれも充分にあり得た話だ。
「最近は特に不安定だと聞いてるわ。大丈夫なの?」
 希凛は真顔で言う。常に真面目ではあるのだが、その中でも重さを含んだ表情だ。
 何故にそのようなことを言うのか、理由は甲太にも分かる。希凛にとって蓮花は気にせずにいられる存在ではない。
「心配あれへん。させへんがな」
 短い問いには短い答え。何も迷う必要などないものだ。この答えが希凛の意図とはずれることも理解している。
「しっかし希凛ちゃんが俺を待っといてくれた理由の半分がそれ言うためやとはなあ……よっしゃ、ここらでいっちょ惚れとくか?」
「……相変わらず真面目に会話しないのね」
「いや、真面目よ? これでもな」
 希凛の不機嫌もどこ吹く風と、甲太はひらひら手を振って再び歩き出した。向かうのは勿論、長老衆の館だ。
 その背へと、希凛は最後に一つ言葉を投げかけた。
「……あなたは、どちらの側?」
 滲んだ警戒と期待の響きに希凛の心の揺れを聞いて、しかし甲太は振り返ることなく答えた。
「俺は<院>の水門大将や」






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