「その名は……」其処は、来訪者がいたとするならば、まさに悪夢だった。目の前で波打つ海は濃硫酸。手など浸せば溶けてゆく。 そんな海が、どこまでも続く。 昏い昏い色は見るものを奈落へと引きずり込み、予見される破滅の甘美に心を堕とす。 いや、海を見るまでもない。大気中の硫黄が硫酸が、ただ其処にいるだけで身を侵してゆく。 遥か遠くには、炎。 景色がどうしようもないほどに揺らぐ。 海水が電離、プラズマと化して大気に漂い、駆け抜けた熱波は冷やされてさえ数千度にも及ぶ。 その中央、数万度の高熱の只中に『それ』はいた。 信じられぬ光景。 だが、この世界に生きるならば、このくらいの熱に耐えられなければ話にならない。 『それ』はそんな生命のひとつ。 逆さにした涙滴状の赤い肉体、縦に裂けた眼裂から覗く巨大な単眼。 『それ』はこの灼熱と硫酸の世界に生きる存在たちの王だ。 誰一人として従うものはなく、それでなお王であると言うほかない存在。 『それ』は男であり、女でもある。 『それ』は個にして全である。 種の、数十億の意思は溶け合いながら『それ』の肉体を共有している。 これは種としての進化の一つの結果だ。 そして、『それ』はこの世界の王となった。 比肩しうるものなどあろうはずもなかった。 知識の量が違う。 思考の数が違う。 意思の強度が違う。 そこから編み上げられる力が違う。 『それ』はもはや、他の生物とは存在の階梯を異ならせていた。 『それ』は宙を滑るように移動する。 目的は殺戮だ。 狂ってなどいない。 『それ』は、種のすべての意思が溶け合ったがために目的が二つに純化されている。 ひとつは高度な知性を持つに至った存在としての知への欲求。 そしてもうひとつは、生物の本能たる種の保存と繁栄。 しかし個にして全となった『それ』が種の保存と繁栄を成すならば、手はひとつしかない。 すなわち、他の一切の生命の抹殺だ。 この世界で唯一の生命となってしまえば、それが至上の繁栄。敵たるものもない。 ゆえに『それ』は殺戮を行う。 抗せるものはない。 戦う必要すらない。 従うものなき孤高の暴君として、灼熱の中で生きる命をそれ以上の圧倒的な力でただ焼き尽くしてゆくだけだ。 『それ』の単眼が細められる。 獲物を見つけた。 『それ』は音を出す。 集合意識の編み上げた、数万の意味を圧縮した言語。 もっとも、今のものはすべてが本能を果たすことへの歓喜なのだが。 『それ』は炎を成す。 炎はこの世界の核となる力。 『それ』の炎は憐れな標的をまたたく間に蹂躙した。 標的は大気に散り果て、世界へと還る。 『それ』の日常。 『それ』はこれを繰り返す。 己のみとなるそのときまで繰り返す。 そのはずだった。 しかし、今日は様子が違った。 闖入者が現れたのだ。 『それ』と同じく宙に浮く、小さな白い生命。 この荒々しい世界では即座に消し飛んでしまいそうなのに、確固として此処に在る。 「熱に強いものを熱で殺す……なかなか大したものですわ。集合知性もよいものですわね。今度どこかで仕掛けてみましょう」 白い生命は言った。 『それ』はその生命について考察する。 この世界の存在ではないのは確かだ。 知識には一切刻まれていないし、そもそもこの世界に適した形状ではない。 一方、世界が此処だけであるという見解は信ずるに値しないと『それ』は認識している。 膨大な知識と思考が仮定を山ほど積み上げる。 しかし仮定は仮定、事実を観察せずには無意味と成り果てる。 『それ』は問う。己に何の用であるのかと。 白い生命は笑った。 「あなたの望むものを差し上げましょう。代わりに部下となりなさい」 示したのは、ひとつの固体。 『それ』には分かる。異常なまでの力を秘めたものなのだと。 白い生命の手を離れ、ほのかに輝きながら『それ』の目前に漂う。 『それ』は感じる。強い、強い炎の力。 そして、欲するものを与えてくれる予感。 『それ』はそれを取り込んだ。 焼かれる。 その身が焼かれる。 取り込んだものは、『それ』にとってすら想像も及ばぬほどあまりにも巨大で凶悪な代物。 幾千万の意思が苦痛に悲鳴を上げる。 しかし同時に、幾億の意思が望むものを得た喜びを叫んだ。 それは知識だ。 無限に連なる世界、永遠神剣、永遠者、闘争。甘美な知への欲求が満たされてゆく。 貪欲に貪欲に、どこまでも吸収する。 多元宇宙の在り様、始まりの一つたる永遠神剣。 そして一つに還りたいという願望。 その願望は、個にして全たる『それ』には共感できるものだった。 『それ』に世界への未練などない。 集合意思と神剣の意思が一致したからには、征くのみだ。 「ふふ……堕とす必要すらありませんでしたわね。まるで誂えたよう……」 白い生命は笑い、それから促す。 「さあ、行きますわよ。けれどその前に、この世界を糧としてしまいましょう」 『それ』は諾の応えとともに、得た力を振るった。 高熱、超高熱、もはやそのような言葉も生易しい炎が世界そのものを舐める。 『それ』の頭部にはいつしか王冠が顕現していた。 第三位永遠神剣<炎帝>の所持者である証。 世界が燃えてゆく。 この世界は炎の世界。炎が炎を呼び、すべてが熱となってゆく。 紅蓮の炎の中で『それ』はまさに帝王として在った。 その名は<業火のントゥシトラ> 秩序の永遠者のひとつにして、<法皇>テムオリンの配下である。 |