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八の字の巣穴

八の字の巣穴

第四十八話「月酔」

 風が宗一郎の髪を揺らす。
 夜風といえども浜風、潮の匂いが鼻腔をくすぐる。
 見ることのできる範囲には、仲間以外の姿はない。普通であれば夜歩きの一人や二人、いそうなものなのだが。
 だから、自動販売機のところにいた先客も然り。
「蓮花」
 宗一郎は名を呼ぶ。
 取り出し口から缶を一本取り出した蓮花は、立ち上がりつつ少し笑った。
「あ、宗一郎くん……」
 そしてこちらへと少し歩いて、しかし宗一郎も何か買いに来たのであろうことに気付き、すぐに立ち止まった。
 祭りからそのままの浴衣姿は自動販売機の明かりにむしろ眩しく照らし出されている。
 日本ではありふれた自動販売機ではあるが、七つも並んでいるとさすがに壮観だ。
 宗一郎は蓮花の前まで行き、そこの自動販売機にコインを投入、コーヒーを買う。
 缶を手に顔を上げると、蓮花は小首を傾げた。
「勝った?」
「いや、負けた」
 あっさりと答え、宗一郎は真顔で続ける。
「しかし蓮花、自動販売機を使えるようになっとるとは……」
 特に皮肉のつもりもない素直な感想だったのだが、蓮花は頬を膨らませた。
「……宗一郎くん、それはひどいよ……」
「けど、五年前は存在知っとっただけやったやろ?」
 蓮花は学校へ行くのに車での送迎付きだった。
 無論家で使うことなどないし、どこかへ出かけるときも、飲み物が必要ならばしっかりと用意される。
 使ったことがないのは当然とも言える。
「それはそうだけど……あたしだってこっちに来てから慣れたもん」
「……ま、もう二ヶ月以上になるしなあ……」
 宗一郎はプルタプを開け、コーヒーを流し込む。
 ブラックだが、そうであることに特別な意味はない。単にその機体で売っていたコーヒーがブラックだけだったという、それだけのことだ。
 蓮花も同様に、自分で買ったものに口をつける。少し戸惑ったような色を見せて、しかしすぐに目元が緩んだ。
 恐らく目新しいものを試しに選んでみて満足のいく味だったというところだろう、と宗一郎は見当をつける。
 すると、その視線をどういう意味にとったのか、蓮花が少し俯いた。
「……もしかして……やっぱりはしたないとか思ってる……?」
「はしたない?」
 蓮花の何処となく恥ずかしそうな上目遣いの理由を量りかね、宗一郎は少し戸惑ったものの、気付くのにはそれほどの時は要しなかった。
「いや」
 立ったまま飲み物を飲むというのは、古来よりの日本の作法からすれば上品な所作とは程遠い。
 宗一郎にしてみれば気にもならないことだし、この状況においては大半の人間が同様だろうが、それでも蓮花には気になるものらしい。
「三ヶ月前までは想像もせえへんかった、か……?」
「立食パーティ以外なのに立ったまま飲むなんて、今でも凄く変な感じするよ……」
 蓮花は軽いため息をつく。
 夜空を見上げると、そこには月。
 背後には人工の光、空には自然の光。
 二つの光に挟まれて、ゆっくりとではあるが缶の中身を喉に流し込んでいく。
「……あのね、宗一郎くん……あたし、言っておきたいことがあるの……」
 顔を月に向けたまま、蓮花は呟くように言う。
「お父様に言われて来た……っていうのは言ったよね?」
「ああ」
 宗一郎は頷く。
 元から予想はしていて、今日の昼に聞いた。
 蓮花はおそるおそるという感じでこちらを振り向いた。
「信じてもらえるかどうかは分からないけど……あたし、確かにお父様に言われはしたけど、でもそれだけじゃなくて……」
 振り向いた後は食い入るように見つめる。
「あたしは、宗一郎くんを助けてあげたいと思ったから来たの…………お父様に言われたことは、渡りに船だったから……」
 しかし、声は尻すぼみになった。
 言葉にして自分の耳で改めて聞いてみると、とても嘘臭く聞こえる。
 まるで、言われたから来たということを糊塗しようとしているように聞こえる。
 朱鷺子に勇気付けられて言ってはみたものの、早くも後悔の念が湧いてくる。
 だが宗一郎は事も無げに頷いた。
「やろな」
「……え?」
 あまりにもあっさりと受け入れられてしまい、蓮花の方が戸惑う。
「その……信じてくれるの?」
「それも大体予想ついとったから」
 宗一郎は少しだけなまざしを細める。
 告げたのは至極単純な理由。
「言われて来ただけやったら、絶対もっと挙動不審やったやろ、多分。あるいは後ろめたさからお嬢様モードに入っとったか」
「あ……」
 蓮花は言葉を失った。
 心を安堵が満たしてゆく。
 思わず、笑ってしまった。
「なんだ……二ヶ月も気を揉んでたのが馬鹿みたい。宗一郎くんはひどい人だよ。気付いてたのなら言ってくれればいいのに」
「……いや、こっちから言うた場合、台詞想定するとかなり嫌な感じになるんやけど」
 宗一郎はこめかみを掻いた。
 少し違和感を抱いたのだが、そういうこともあるだろうとそのまま流す。
 蓮花はそこで大きく息をついた。
「暑いね……」
「夏やからな」
「ほんとに暑い……」
 呟きつつ、無造作に近くに寄って来る。
 蓮花の肩と宗一郎の腕とが触れ合いそうな距離。
 その近さから蓮花は見上げてくる。
「それにしても宗一郎くん、ほんとに背が伸びたよね」
「……昔から背は高かったぞ、相対的には」
 覚えている限りでは、クラスで背の低い順に並ぶと後ろから二番目以内ではなかったことがない。
「うん、でも五年前はこんなに見上げなかったよ……もっと近かった」
 蓮花は懐かしそうに言う。
 確かにそうだったと宗一郎も思い出す。
 宗一郎は男子で高い方、蓮花は女子でやや低い方、ではあったものの十、十一のあたりというのは男子よりも女子の方が平均身長が高い年代だ。
 身長差は精々10cmくらいだったのではなかろうか。
 それが今では、30cmとまではいかずとも20cm以上は確実にある。
「でもね、あたしもちゃんと成長はしてるんだよ……?」
「……そら、全然背ぇ伸びてなかったら逆に凄いわな」
「身長もだけど、ほら……」
 そこで蓮花は自分の胸に手を当てた。
「結構ね、悪くない成長度じゃないかなって思うんだ……」
 押さえられて、浴衣越しにではあるが胸の膨らみが描くラインがよく見えた。
 頬が紅い。
 こちらを見上げてくるまなざしはとろんと潤んでいる。
 宗一郎は凍りついた。
「……いや、正直……そんなこと打ち明けられても困るんやけど……」
 先ほど感じた違和感が大きくなる。
 蓮花がおかしい。
 ひどい人だ、などとは冗談にも言うはずがなかったし、今のものに至っては論外だ。
 そんな話題は振られるだけで真っ赤になって逃げ出してしまってもおかしくないのに、それどころか自分から言い出している。
「困ればいいんだよ、宗一郎くんなんて。何かあったら協力するって言ったのに、全然頼って来てくれないし……」
 今度はあからさまに拗ね始めた。
「あたしの方が強いのに……宗一郎くんのボディガードくらいできるのに……」
「いや、蓮花、あのな……」
「……判ってるよ。剣の腕だけあってもしょうがないことくらい判ってるよ。どうせあたしは無菌培養だよ。朱鷺子さんみたいに頼もしくないよ」
 今になってようやく漂ってくる。
 酒臭い。
「……いや、朱鷺子より頼もしい同年代は僕も知らんわ」
 宗一郎は思わず呟きつつ、蓮花の手にしている缶に視線をやった。
 オレンジと桃の、アルコール飲料。
 嫌な予感的中だ。
「……なんで酒飲んでんの、お前……」
「え? お酒なんて飲んでないよ?」
 呂律はしっかりしつつも、もはや疑う余地はないだろう。
「宗一郎くん、あたしを馬鹿にしてるでしょ? 自動販売機でビールを売ってることくらい、ちゃんと知ってるんだから」
 つまりは、缶酎ハイを売っていることがあるのは知らないらしい。
 どうしたものかと宗一郎は嘆息する。
 とりあえず皆のところに連れて行くべきだろうか。
 残ったコーヒーを飲み干し、缶入れに捨てる。
 すると蓮花も残りを一気に飲み干した。
「さあ、帰ろっか、宗一郎くん」
 もう上機嫌になっていた。





「…………まあ、この際仕方あるまい」
 事情を聞いた朱鷺子の第一声はそれだった。
 蓮花は、堤防にもたれかかって眠ってしまっている。
 酒には相当弱いらしい。
「僕も酎ハイ売っとる自動販売機なんぞ久々に見たけどな」
 宗一郎は蓮花の右に腰を下ろしている。
 左肩には蓮花の頭が乗せられ、右に座っている緋雪は宗一郎だけに分かる圧迫感を無言でかけてきている。
 それでも何も言わないのは、今回は仕方ないと思っているからだろう。
 浜では晃人と雄介が、<力>を発動させずに<武具>でやり合っている。
 普段やらない相手と、という当初の目的は、挑まれた遥が『うっきゃぁぁぁぁあああああ!!?』と奇声を上げて逃げ去って潰えた。
 蓮花はこれで、朱鷺子には得物が存在しないということで除外されている。
 ちなみに、遥はまだ帰って来ていない。
「しかし、力ずくで連れ帰してくるかと思たけどな?」
「……祭りのときの武勇伝を聞いてな。今日は特別だ」
 ほんの少しではあるが、朱鷺子は嬉しそうな表情を見せた。
 普段厳しく接してはいても、可愛い妹には違いないのだ。
 宗一郎もつられたように口許をほころばせた。
「方向性はまったくちゃうけど……さすがにお前の妹やな」
 強さなど、語れるものではない。
 いかなるものであれ、素直に強いと思えたならそれは強いのだ。
 そんな思いで、宗一郎は月を見上げる。
 見事な満月だ。
 朱鷺子もそれに習った。
「風流を解する者は、酒が無くとも酔えるそうだが……」
「……なに、誰にでもできることやぞ。感動すればええ」
 交わした言葉は、その実、あまり意味がない。
 しかし、そこで宗一郎のまなざしがすうっと細められた。
「けど、月は魔性やからな」
 月は夜を照らすもの、希望と言う名の光で蠱惑する。
 月は欠け行くもの、死のもたらす美しさで蠱惑する。
 月は満ち行くもの、高みへと行く昂ぶりで蠱惑する。
 月は留まらぬもの、素顔を見せぬ彩りで蠱惑する。
 宗一郎は低い声で滔々と述べてゆく。
 頷くことはせずとも、朱鷺子はそれを聴いていた。
 浜風が、後ろで括った髪を揺らす。
 不意に、呟くように言った。
「……恐ろしいものだな」
「月は只だ 人なるものを 映し居り 月を肴に 己にぞ酔う」
 五・七・五・七・七
 宗一郎は低く詠う。
 朱鷺子はほんの僅かに笑みを浮かべて振り返る。
「自作か?」
「即興や」
 宗一郎もにやりと笑い、さらに続ける。
「酔わば酔え 映す泡沫 現とて 夢幻も 我がうちなれば」
 前者を皮肉だとすれば、後者はそれを受けての開き直り。
 その両方ともが宗一郎の本意だ。
 朱鷺子はあえて深く掘り下げることはしなかった。
 それは今、無粋だと思えた。
「見事に酔っているな」
 だから、笑みを含んだ声で言う。
 宗一郎も口の端を吊り上げて返した。
「お前もな」



 緋雪はただ其処に座し、うっすらと笑みを浮かべた。










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