第九十一話「自覚、そして察知」ぼんやりと、視界に天井が映る。いつかのことを晃人は思い出す。 闇の底から浮上する意識、目に入る景色は天井、そして。 「ん? あ、もう目が覚めた?」 この声でこんな台詞。 天井の感じも違うし台詞も少し違う気はするが、思い出さずにはいられない。 「……負けた、か……」 擦れた声で呟いた。 なぜだろうか、無性に悔しかった。 相手の方が遥かに強いことなど判っていたというのに、勝てなかったことが心に重く圧し掛かる。 「そうね、気力で飛び掛ったところに交差法一閃、見事に気絶」 枕元で翔子が言う。 からかうような調子ではない。 張りはあるものの、穏やかで優しい声。 「……ここは?」 晃人は問う。 ベッドに寝かされていることまでは判るものの、白いこの部屋には見覚えがない。 「端的に言うと、怪我人寝かせとくための部屋ね。隣の部屋には大介さんが入ってるわよ」 「……なるほど……」 晃人はただ息を吐いただけともため息とも判別しづらい吐息をつき、ぶっきらぼうに言った。 「もう俺は目が覚めたんだから会場に戻ってろよ」 「そうもいかないわよ。あたしの叱咤激励であんたが立った以上、看病の義務と権利くらいはあるわ」 「……何言ってんだ、俺はお前に言われたから立ったわけじゃない」 そうは返してみるものの、あの声がなければそのまま気を失っていたことくらい自分でも判っている。 翔子は何も言わなかった。少し困ったように笑いはしたが、それだけだった。 その視線が横を向き、キャスターの上にあったものを手に取る。 「……なんか、林檎が備え付けられてるんだけど……食べる?」 「なんで部屋に林檎置いてあるんだよ。怪しいだろ。腐ってないか?」 「あたしもおかしいと思うけど、腐ってはないみたいよ」 しかし林檎は元の位置に戻し、翔子は晃人の顔を覗きこんだ。 「……身体の方、大丈夫?」 「なんともねえよ」 至近に寄った顔が照れくさくて、晃人は窓の方を向く。 落ち込んだ気分のこんなときにはいつも、翔子は優しい。 「ほんとに?」 「嘘ついてどうするんだよ……それより、まさかお前わざわざ俺を寝込ませて看病の優越感に浸るために声かけたとかいうんじゃないだろうな?」 ちらりと視線だけ向けて何気なく言う。 翔子の声で立ち上がり、結果としてここで寝る破目になっていることからのちょっとした皮肉。 しかし、その瞬間に翔子のまなざしに閃いたものに、晃人は迂闊な発言だったことを知った。 図星を突かれた、や、気を悪くした、などというものとはまったく質の異なる本物の怒り。 けれど、それは一瞬のことだった。 翔子は呆れたような顔をして半眼となる。 「あのねえ……そんなことして何が楽しいのよ?」 そうだった、と晃人は後悔した。 常に活力溢れ、なかなかの舌鋒をも誇る翔子は、むしろ誰かが傷つくことを厭う性質だ。 翔子と遥は対照的に見えるが、そこだけはよく似ている。 先ほどの言葉は軽口にしても軽率に過ぎた。 「……ごめん、言い過ぎた」 「ほんとにもう、あんたは……」 なんでもうちょっと厚意を素直に受けられないかな、とぼやきつつも翔子はまた微笑んでいた。 本当に、卑怯なくらいに優しい。 本気で腹を立てるようなことを言われてもそれを許してしまう、そんなことをされてどんな意地が張れようか。 「……そういえばさ、あんた最後だけ戦い方の印象違ってたけど、どうしたの?」 ふと思い出したように翔子が言った。 「利口に戦うより、この一撃に賭けるって感じだったんだけど?」 「……んなこと言われてもなあ……」 晃人もよくは覚えていなかった。 ただ我武者羅だった、それだけなのだ。 と、あのとき思い浮かべた顔を思い出した。 それは今、目の前にある顔でもあり。 よく判らない、と続けることもできなかった。 どうしようもなく顔が熱い。 翔子がいぶかしげな顔をする。 「どうしたのよ、いきなり挙動不審になって?」 「……るせえ」 布団に顔を埋めてしまいたいところなのだが、それはそれで格好悪い。 どうにかしたいがどうしようもなく、窓の方を向いて不貞腐れたように言う。 「俺の後ろで誰かぶっ倒れてるつもりでいただけだ」 「ああ……それにあたしを使ったもんだから、それ思い出して照れた、と」 まるで読心の異能でも持っているかのように、翔子は的確に言い当てた。 晃人は応えないが、その沈黙こそが肯定になってしまっている。 翔子も少しの間黙っていたのだが、やがて静かに語りかけてきた。 「……討滅の家ってさ、守ることを基本に置くの」 晃人は顔を窓側に向けたままで、ただ聞いている。 まだ顔のほてりが収まっていないということもあるが、途中で口を挟めそうにない雰囲気だということの方が大きい。 「自分のことだけ考えるのなら、そもそも戦う必要なんてないの。命を賭ける必要なんてないの。自分がやらなくても、他の誰かがいるから。朱鷺子さんの受け売りだけど」 「……え?」 朱鷺子の受け売りだというのには驚いた。 似合わない気がする。 「そう言って全員辞めたらどうするんだ?」 「あたしも同じこと訊いたわよ。そしたら『私が守る』って、真顔で言われちゃった」 まあ言葉の綾なんだろうけどね、と苦笑気味に付け加えてから翔子は続ける。 「あんた、海のときに朱鷺子さんに止められたの覚えてる……?」 「……忘れるわけねえだろ」 毎日の鍛錬と戦いへの接触、その二つによってある程度出来上がっていた自負を至極あっさりと一言で切って捨てられた記憶。 そして、上位とはいえ戦鬼に一撃しか食らわせることのできなかった記憶。 「守るために戦うのがいいって言うのか?」 「……少なくとも、朱鷺子さんはそんなこと思ってないわよ」 「はあ?」 否定されて、晃人は戸惑った。 流れからするとそういうことなのだとばかり思っていたのだが。 思わず起き上がって翔子の方を振り返っていた。 急激だったためか少々くらりと来たが、すぐに収まる。 「じゃあ、何だっていうんだ?」 「確証はないんだけどね、朱鷺子さんは……きっと、戦う理由そのものは何でもいいと思ってるの。その戦いが人を守ることになるのならね。もしもあんたの力がここのランキング一位くらいだったら、同じこと言っても止めなかったはずよ」 「いや、でもあのとき……実力とは無関係みたいなこと言われたような気が……」 「止めないのと信頼するのとは別よ。信頼って、相手のことをしっかり確かめることができて初めて成り立つものなんだから」 なぜだろうか、翔子のまなざしは憂えげだった。 それが、晃人に向けられている。 「でもあたしは兄貴や朱鷺子さんみたいに強くない…………晃人には守るために戦って欲しいと思ってる。だから……嬉しかったわよ、さっきの」 後ろにいる誰かを守るために力を出そうとしたこと。 それを嬉しいと言う。 あるいは、と収まってきていた晃人の動悸がまた激しくなってきた。 守る相手に翔子を選んでいたことだろうか。 まさかとも思い、そうなのかもしれないと思う。 「……俺に守られるほど弱くないとでも言われると思ったけどな」 結局出たのは皮肉。 しかし本当に翔子の言いそうなことでもあった。 翔子は苦笑した。 「今はね。でも、十年後は判らないわ。それともずっとあたしたちの後ろにくっ付いてくるつもりなの?」 「すぐに抜いてやるさ」 「抜かれてあげない」 にんまりとした笑顔とともの即座の切り返し。 が、すぐに少しだけ笑みの乗った表情になった。 「とにかく、未来のことは判らないわ。それに、あたしはあんたほど捻くれてないの。仲間に守りたいと思われて嫌な気はしないわよ。あ、何か勘違いしてたら別よ?」 そんな翔子を、晃人はまじまじと見つめた。 改めて思う。 今までしっかりと考えたことはなかった翔子のこと。 調子に乗れば鼻先を押さえ、気力が尽きようとすれば叱咤し、失敗すれば庇い、落ち込めば励ましてくれる。 勝気かつ相手によってはからかうのを好むが、他人思いで優しい。 ついでに言うと、容貌容姿ともにシャープな美人だ。 晃人は窓の外に目をやった。 駄目だ、気付いてしまった。 相当魅力的な女の子なのだ、葉渡翔子は。 客観的にも、そして主観的にも。 「……参ったなあ……」 踏み込まない、踏み込ませない、そう生きるつもりだったというのに。 自覚してしまうともうどうしようもなかった。 以前から思っていたことが、気になっていたことがあるのだ。 訊くならば今しかない。 「なあ……」 晃人は口を開き、また翔子の方へと向いた。 小さく息を吸って心を密かに落ち着けてから続ける。 「……お前ってさ、実は葉渡先輩のこと好きなんじゃないのか?」 それは、出会ってしばらく経ったあたりでふと思い、見ているうちにどんどん大きくなっていった疑問だ。 学校で教師や同級生に接する翔子は頼れる優等生にしか見えない。 雄介や遥、それから自分に対するときはそれよりもぞんざいになる。 そして宗一郎へは、口まで随分と悪くなる。 しかし、それは逆に考えれば、そんな態度をとっても壊れる関係ではないと確信しているからこそできることだ。 甘えても大丈夫なのだと、それくらい心を許しているということだ。 口が悪くなるだけなら本当に嫌いなだけという可能性もあるにはあった。 だが、見ていても嫌いなわけではないように思えていたし、先月宗一郎にしがみ付いて泣いていた様に至ってはまるで逆だ。 「どうなんだ?」 「どうなんだ、って……そうだけど?」 覚悟の上に覚悟を重ねての晃人の問いに、翔子はいともあっさりと頷いた。 そのあまりにあっけらかんとした調子に、晃人は言葉を失う。 もう少し、驚くだとか慌てるだとか隠そうとするだとかあってもよさそうなものだというのに、これでは入れた気合の行き場にも困る。 同時に、身体が冷えるような感覚があった。 頷いて欲しくなかったのに。 「……どこが……好きなんだ……?」 やっとのことで出た言葉はそんなもの。 顔の方は、果たしてどうなっているだろうか。 「どこがって言われても……」 翔子は思い切り困った顔をした。首を捻っているほどだ。 翔子が答える前に、晃人は続けていた。 「……お前には悪いが……正直言うと、俺にはあの人がいい人だとは思えない」 思い出したのは海でのことだ。 仲間の一人を道連れにするという脅迫に対し、宗一郎は構わないと答えた。 日常でも思い出せることはいくつかある。 が、翔子はむしろ呆れたように言った。 「そりゃそうでしょ。あれ捕まえていい人だなんて言うの、遥くらいしか見たことないわよ。思ってたよりいい人、くらいならまだしも」 「……それでも好きなのか?」 「まあ……あれでもあたしや雄介は大事に思ってくれてるわよ?」 「心配してるお前をあっさり振り切って出かけることないか?」 畳み掛けるように、晃人。 しかし翔子は当たり前のことを改めて聞かされたように苦笑しただけだった。 「大事にしてても戦いに行くのよ、困ったことに」 そこには欠片の動揺もない。 その代わり、愛おしさと切なさが滲んでいた。 「本当にね、あたしたちには凄く優しいの……態度は無愛想だけど」 ああ、と不意に腑に落ちた。 時折見せていたどきりとするような表情、それは宗一郎に向けたものだったのだと。 こんな顔をされてしまうと何も言えなくなってしまう。 遊園地で翔子が好きになってしまったら自分を誤魔化さなくていいと言っていたことも思い出す。 ここまではっきりと言うのならば、もう何を言ってみたところで駄目だと思えた。 翔子は、照れたように笑った。 「まあ、いいとこもたくさん知ってる、嫌なとこもたくさん知ってる、でもそんなこと関係なく好きなのが家族ってやつでしょ……とか言うとちょっと恥ずかしいかな」 「……………………は?」 何だか、思いも寄らないことを聞かされた気がする。 今まで交わした会話をもう一度思い出してみる。 質問の意味が何だか勘違いされていないだろうか。 「……いや、あのさ……そういう意味じゃなくて……」 「そういう意味じゃないって?」 翔子はきょとんとしている。 完全に勘違いされていることを晃人は悟った。 「いや、だから……」 訂正しようとして、実に言い出しにくいことに改めて気付く。 結婚したいとかそういう方、だとか、恋人の方、だとか言えばいいのだろうか。 もっとも、言う前に翔子の方で勘付いたようだった。 いつもながら勘がいい。 「あんた、まさか……あたしが兄貴に惚れてるか、なんて訊いてたの……?」 「…………一応。勘違いされてるとは思わなかったんだ」 ばつが悪そうに、晃人。 翔子は深いため息をついた。 からかいではない、本気で呆れたため息。 「普通さ、実の兄を好きなのかって訊かれたら、家族としてで考えるに決まってるでしょうが……」 「……そうかもな」 考えてみればその通りである。 自分の場合は姉妹はいないが、例えば母親のことが好きなのかと誰かに訊かれたら、色恋沙汰の質問として受け取るわけがない。 少々頭に血が上っていたかもしれない。 「まあ、そう思うくらい怪しく見えたってことだ」 心の底でほっとするものを感じつつ、晃人は軽口を叩く。 「今の日本の法律じゃ三親等以内は駄目だからな。やばいだろ」 「そんなこと思いつくあんたの頭の方がやばいんじゃないかと思うわよ」 翔子は容赦なかった。 しかしそれもいつものこと。 晃人には無性に楽しく思えた。 既に身体の方に問題はないが、もう少しこうしていたい。 試合フィールドへの出入口。 「……あと五分、か……俺の試合はなしだな、こりゃ」 武士は腕時計を確かめて呟く。 今はGブロック決勝だ。 もう優劣はほぼ決まっているが、実際の勝利が決まるまでとインターバルにはそれなりに時間を食うだろう。 日付が変わるまでは、口にした通り五分。 予想通りならば、ことはそのときに起こる。 絶対とは言えない。 だが、見てきたのは必ず日付が変わる瞬間だった。 「乗るか……反るか……愉快だなあ、おい。なあ、旦那よ……」 くっくと笑った。 宗一郎は夜空を見上げる。 「……第五素……か……」 緋雪を見ると、いつもの無表情にも見える澄まし顔で首肯が返って来た。 次に朱鷺子を探す。 先ほどはいなかったのだがいつの間にかこの辺りに帰って来ていたらしく、すぐに見つかった。 「何だ?」 近寄ると鋭いまなざしを向けてきた。 宗一郎は告げた。 「……何か来るぞ」 ジャンル別一覧
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