其の四其の四の一「<星詠み>」 閉鎖領域の入口に彼女は立っていた。 小柄な身体を群青の上衣がすっぽりと覆い、高い位置で一つに括られた白金の髪がただ月明かりにきらきらと長く腰まで降りている。 顔の上半分は鳥を思わせる複雑な意匠の凝らされた仮面で覆われていて年の頃は判別しがたいものがあるのだが、十代半ばから後半ほどの容貌なのではないかとは推測できる。 風の塊が吹きつけた。白金の髪が大きく流れ、上衣がふわりと大きく広がる。 下に覗いたのは、幾重にも重ねられた深緑の衣だ。丈は短く腿ほどまで。代わりに褐色の長靴が膝上にまで達している。細い、儚げな体躯。折れてしまいそうにすら思える。 しかし風は一瞬のこと。再び身体を群青の上衣が覆う。 彼女、仮面の魔神のくちびるが動いた。 「……気取ったつもりでいるのかしら。可哀想……」 か細い声、平坦な口調。だが口許は確かに嘲弄の弧を描く。 もう一度、風が吹き抜けた。 その跡に滲み出すようにして、一柱の魔神が姿を現す。 「喧嘩を売っているのか!?」 物々しい重装の西洋式鎧に身を包んだ魔神だ。首から上だけが露になっており、短い金髪を激情に揺らめかせながら細身の剣を手の内に顕現させる。 浄化の意を秘める神器のひとつ、<舞踏伯爵>を突きつけられても仮面の魔神の笑みが引くことはなかった。 「……そんなことあるわけないじゃない、馬鹿ね。喧嘩を売るというのは普通、対等か格上に対して使うものよ。格下に押し売りするなんてみっともないもの。よかったわね、足りない頭にもこれで少しは知識が入ったかしら……」 「貴様ッ!」 「私に用があって来たのではないのかしら、<翔ける光>のミナクシュア? それとも死にに来たの? 歌ってもいいの?」 その声はか細いのに、恐ろしいまでに浸透する。身体の裏までいつしか突き抜けている。 ミナクシュアの怒気は腹の底に冷たく沈むものによって霧散させられた。 「……用があるのは<星詠み>としてのお前だ」 「あら、残念……」 仮面の魔神は薄いくちびるをちろりと舐めた。 「それで、誰の神格について知りたいの?」 <星詠み>の神格は、現界した、あるいは現界するはずのすべての魔神の名と神格を知る。 仮面の魔神はその数少ない一柱である。 ミナクシュアは一度ためらい、それから告げた。 「……ゼフィータ」 「滑稽ね。怖いの? 仮にも千の階梯を昇り切った魔神が、階梯二百にも満たない魔神を恐れるの?」 「嫌な予感がする。あれはきっと私を殺す」 ミナクシュアは真顔で応える。 そこに確かな恐怖を見て、仮面の魔神は笑い声を上げた。 「だから今のうちに消しておく……妥当な判断ね。可笑しい」 「それで、神格は?」 「<灰白>のゼフィータの有する神格は二つ。一方はありふれたもの。<守護神>」 仮面の魔神は大きく両腕を広げた。夜空を仰ぎ、歌うような響きで続けた。 「そしてもう一方は、私の<歌姫>のように、エクサフレアの<神魔>のように、過去にも現在にも未来にも彼女のみが有する固有の神格。<戦神>」 「<戦神>?」 ミナクシュアは神格の名を鸚鵡返しにする。知らぬ神格であることには驚かないが、自分にとっては碌でもないことになる予感に知らず身が震える。 「<戦神>とは何だ?」 「その条件はただ一つ。完成の暁にはいかなる魔神を敵としても勝利できる強さ。比喩ではない、比肩する魔神などない最強。それが<戦神>」 仮面の奥から視線がミナクシュアに注がれる。 か細い声が煽るように流れる。 「頭は空っぽでも勘は冴えているのね。むしろ空っぽだからかしら? だから変な声が響くのね。予言してあげる。<灰白>のゼフィータは<翔ける光>のミナクシュアを滅ぼす。消すならなるたけ早くすることを勧めるわ」 「予知など出来るとは聞いたことがないが? 嫌がらせか?」 嘲りの響きにも、一度萎んだ怒りは蘇らない。そもそもこの<歌姫>は口が悪いことで有名だ。 しかしミナクシュアの言葉は空回る。仮面の魔神は応えない。 その薄いくちびるだけがさらに薄い笑みを浮かべていた。 其の四の二『申請』 書類とは面倒なものだ。 細かな形式を逸脱することは許されない。 一郎は眉間に皺を寄せた。 最近どうにも、公私共に厚生労働省への申請書を作らなければならないことが多い。出来ることならやりたくもないが、どれもこれも必須のものだ。 私の方はいい。おそらく通るだろう。 問題は公のものだ。安全性を審議だの何だのと言って、偉い役人と素人と保守派専門家ででも話し合った挙句に却下されそうな気がする。通るとしても十年後などという結末も想像に難くない。 更にその後で交渉までしなければならないのだ。書類も交渉も苦手分野である。本当に、誰かやってくれないものか。 低く唸っていると、ゼフィータがじっと見つめて来ていることに気付いた。 いっそ、と思う。 いっそ、交渉を先にしてみるというのはどうだろうか。 権力というものは、人間にとって最大級の力だ。抗するには多くの人間を動かし、その意志を取り纏めるしかない。それが真っ当ではあるだろう。しかし、長い期間にわたる不断の努力が必要となる。 それでは間に合わない。意味がない。 ならば、と思うのだ。 ならば、不確かな鬼札を今こそ切るべきではないかと。 「ゼフィータ」 名を呼ぶ。 少し先の予定を話しておかなければなるまい。 交渉に絶対不可欠な事項を、おそらくはゼフィータならば満たせる。 ゼフィータは小首をかしげた。 「知らぬが。汝が思うままに我は果たそう」 今日も灰白の大輪が静謐に咲いている。 其の四の三『三つ』 ミナクシュアは推測しようとする。 <戦神>とは、果たして何であるのか。 一般的に知られた神格の中で、絶対的に強さを示すものは三つだ。 効率の良い<力>の扱いによってすべての能力が底上げされている<闘神>。 玄妙な技術、業によって極めて高度な戦闘を行える<武神>。 召喚に関して高い適性を持ち、強力な群を大量に擁することの出来る<軍神>。 いかなる魔神を敵としても勝利出来るということは、この三つにも確実に勝るということだ。 しかし、一体どのような能力であればそれを為し得るというのか。 <闘神>の、呆れるほどの力。 <武神>の、奇跡のような業。 <軍神>の、悪夢のような群れ。 それが完成した魔神であれば、どれもこれも相手にしたくない神格だ。勝つための現実的な手段が思い浮かばない。どうすれば勝てるかと問われれば、相手より強いこととしか答えようがない。 こんなことでは駄目だ。 心が圧迫される。恐怖が湧いて来る。 なんとかしなければ。 夜風が頬を撫でてゆく。それすらも背を震わせる原因となる。 いっそ自分にそのすべての神格があればいいのにと思う。そうすれば悩む必要もない。正面からただ打ち倒せばいいのだ。簡単だ。 苦笑いして、ふと思い当たった。 起点を変えてみる。三つとは別の何かだと思い込んでいたが、まさにその三つであるとすればどうだろう。 <闘神>にして<武神>にして<軍神>。 そうであれば、いかなる魔神にも三つのうちのいずれかにおいて勝る。勝る分野を糸口として攻略出来る。今思ったように、正面から薙ぎ倒せる。 始末に終えない能力ではある。しかし手はある。 鍵は<軍神>だ。その能力は階梯とはまったく無関係に発揮される。最も警戒すべきものである。 そして<軍神>の要素だけは無意味にすることが可能だ。多くの群れを失い、かつ召喚できるだけの<力>がほとんど余っていない時を狙えばいい。あるいは召喚する暇もない時だ。 いや、そうでなくともあの<奇譚・桜塚>と名付けられた分身を相手にするのはまずい。あれは、十全であったならば完成した魔神ですら充分に屠りうる代物だ。契約者に恵まれて無事完成することが出来たが、ミナクシュアの階梯当たりの力は並よりは高いといった程度でしかない。相性も悪い。おそらく自分はあれに勝てない。 一方、<闘神>と<武神>を兼ねているとしても、それは問題ない。階梯の比が確実に六倍以上ある。<闘神>と<武神>を兼ねる魔神としては<闘神>の代名詞となっているレフィレティアがいるが、最強の一角と言われる彼女を相手にしても階梯が五倍あれば必勝の自信がある。 是非にも一対一に持ち込まなければならない。 となれば答えは一つだった。 決めた。 其の四の四『思考』 穂波拓也と魔神マーニ。 参戦より八年を経た古参で、マーニの階梯は現在八百にまで達している。 その<戦>の様は極めて堅実。誘惑をことごとく断ち切り、あくまでも基本に忠実に戦う。小さな勝利を黙々と積み重ね、今の位置へと至った。 申し込まれた<戦>を受けるか否か、今度ばかりは一郎も苦い顔で迷っていた。 魔神の現出は十四年前、現在のような機構が組み上げられたのは十年前。八年間戦い続けている、戦い続けてくることの出来た彼らは、たとえ華は無くとも至極真っ当に強い。 群れのみでの<戦>なので階梯の差には何の意味もないが、大きな利益を得ようとした場合、これほどやりにくい相手もない。 こちらの使う群れが一定していないために向こうもこちらの出方を予測出来ず、となれば様々な群れで混成してくる。 無論、<奇譚・桜塚>には何らかの対策を施してくるだろうが、彼らに限らずこれからはそれにばかり目をとられてはくれまい。 利は薄いのだ。自分を磨く絶好の機会であるとか真価が試されるであるとか周囲は騒ぐが、一郎にとってはすべて聞き流してしまえるものでしかない。そもそも<戦>に興味があるわけではないのだ。磨くも何もあったものではない。 利が薄く、そのくせ受けないとなると不利益が大きい。確実に勝てる相手とだけ戦う、と認識されたなら来週からは誰にも<戦>を受けてもらえなくなるだろう。 それはまだ早い。 となれば受ける以外にないわけなのだが。 大きく息を吐く。 一郎はゼフィータを信じている。根拠なくしてではなく、今まで多くの魔神を見てきた目でゼフィータの様を見て、強いと判断しているのだ。だからこそ今度ばかりはさすがにどうだろうかと思う。 今までは戦略か戦術の段階で勝って来たが、今度はほぼ完全に戦場での判断に左右されることとなる。接戦に接戦を重ねて来た魔神マーニの判断力は間違いなく一級品だ。果たしてゼフィータはそれを上回ることが出来るのか。 いかほどの戦力を用い、勝つにせよ負けるにせよ次に繋げるにはどうするか。 信じるという響きのいい言葉に投げ出すことはならない。考えろと自らに言い聞かせるなどということもしない。考えるのだ。 自然、意識が深奥にまで潜り込む。必要なものは決定的な一つではなく、多くの細波だ。思考は波であることが望ましい。僅かな穴からでも入り込み解き明かし、あるいは重なり合えば遮るものを打ち砕く。 一郎はしばらく己の外側を忘れた。 其の四の五『昔を夢に見る』 中身がぶちまけられた。 それはとても大事なものだった。 泣きながら、半狂乱で掻き集める。 しかしそのようなことをして何になるだろうか。二度と元に戻りはしないのだ。 割れてしまった、形を作るもの。折れてしまった骨格。中身は無造作に転がり、液体は土に吸い込まれてゆく。指に引っかかるものは細く艶やかで、今でも夜から紡ぎ出したかのようだった。 『……なあに? そんな物が、どうかしたの?』 女の声がする。こんなことをした女の声が降って来る。 そこにあるのは戸惑いと苛立ちだ。 『え? もしかしてわたし、悪いことした……? ほんとう? 駄目なの……?』 面倒なのねえ、とぼやいて彼女は立ち去った。 噎せ返るような臭い。 目の前には、失くしてしまったもの。 其の四の六『黒と白』 人はその眼に映っていることすら見えてはいないものだ。 食卓で向かい合い、じっと見つめてくるゼフィータをじっと見つめ返していた時に一郎は気付いた。 魔神の虹彩と髪は、白であることと黒であることだけはない。 灰白色の瞳、重い色合いの銀髪。ゼフィータもまた、白でも黒でもない。 だが、匂わせる色ではある。 白と黒が存在しないことに理由はあるのだろう。しかしもしかすると、意味までも存在するのかもしれない。 「ゼフィータ」 呼びかける。 「白と黒と、何か心当たりは?」 とても抽象的な、開いた質問をする。 魔神自身も自分たちのことをよく把握しているわけではないが、自覚せぬままに知っていることはある。 それを引き出すのも魔神学者の仕事だ。 「お前は白と黒に近い気がする」 思うままに続ける。 技術で作られた言葉は魔神には通じない。 思い無く冷徹に組み上げられた論理は、魔神を頷かせることは出来てもその心を動かすことは叶わない。 ゼフィータはこちらをじっと見つめたまま即答した。 「黒は汝、白は汝が胸に刻まれし失せもの。知らぬが」 「……私と失せもの、な」 真っ先に思い出したのはひとつ。しかしそうとは限らない。たかだか三十年と言えど、生きていれば失せものなどひとつふたつと言わずある。失ったことすら気付けない、そのようなものも多いだろう。 黒と白が自分個人とその失せものなのか、ヒトという存在とヒトが失ったものなのかさえも不明瞭だが、すぐに理解することが出来ないとしても貴重な情報だ。 「ふむ」 席を立つ。自室へ行き、安物の碁盤と碁石を取って来る。 「やるか?」 「よい。だがまずは規則を教えよ」 ゼフィータはこくりと頷いた。そして食卓に置かれた碁石のうち、白の方を灰白色の長手袋に包まれた繊手で引き寄せる。 「もしも黒と白で分けるのであれば汝は黒だ、一郎」 「……私が先手かい」 其の四の七『魔神マーニ』 戦場は土しかない地平だった。 無尽に広がるその景色を埋めるのは大群、しかも対峙する二つの構成は似通っていた。 前列には<火炎牛>、<風狼>、<水狐>、<氷蝶>、<雷鷹>。 その後ろには<鉄兵>、<炎精>、<風精>、<水精>、<氷精>、<雷精>。 前衛と後衛における基本中の基本と言ってもよい陣容だ。それが両陣営に総計一万ずつはいる。 無論、差異はある。魔神ゼフィータの陣営には中央で威容を見せる<奇譚・桜塚>とその後ろに<闇狩>と呼ばれる漆黒の球体がいて、魔神マーニの陣営には<雷鷹>と<雷精>が多い。 陣容からはどちらが有利とは言えない。必然的に混戦となると予想される中で、どの群れをどの群れにぶつけるか、どのような配置で接触するかが重要となる。目先のことに囚われて接触段階の有利しか見ていなければ、その次の段階で足下をすくわれる。<戦>の基本と同じだ。どのような進め方をするにせよ、各局面において効果的に勝ち、効果的に負け、最終的に勝利を収めることが重要となるのである。 「……<灰白>のゼフィータ、ね」 遥か向こうの空に佇む対戦相手を見やり、マーニは呟いた。どれほど視力がよくとも人には点とまでしか見えぬ距離だが、魔神である身には細部まではっきりと弁別できる。 小柄で、かつ全体的には華奢だ。ロングドレスとも相まって、譬えるならば嗜みとして剣を覚えた姫という印象がした。人間であれば、剣は使えるが所詮は真似事程度とでも評するだろう。ただ、魔神にとって身体能力と体躯は比例するものではないため、実際にどうであるかを推測することは出来ない。 それよりも表情だ。こちらに向けられた透明なまなざしに、無意識のうちに心が壁を作り出してしまう。 今回の対戦は頼まれたものだ。同時期に顕現したミナクシュア、何度も対戦するうちに親しくなった彼女から二年ぶりに連絡があった。 だが、マーニ自身もそれとは別に興味が湧いた。戦いたかったと言うと少し違う。鼻っ柱を圧し折りたかったわけでもない。写真などではなく、記事などではなく、実際に戦場で見てみたかった。 そして今、思わずにはいられなかった。 なんと静謐なのだろうか。魔神とは多かれ少なかれ闘いを好むものだというのに、まるで反例のように静かに居る。かと言って<戦>を恐れているわけでもなく、飽いている様子も見えない。 ぞくりと来た。色のない視線が、だからこそどこまでも見透かしてしまいそうに思える。 剥き出しとなった左腕、粟立つ肌に右手で触れる。 「……そう、変わらないのね、今までと。それなら……」 質、量、組み合わせの全てが拮抗したこの<戦>も、<灰白>のゼフィータにとっては勝利の約束されていた今までの<戦>と同じだということなのだろう。 それが過信であるのか事実であるのか。 「見せてもらうわ」 綺麗に切り揃えられた淡い翠の髪が肩の上で揺れる。 纏うのは同色の、皮革めいた質感の衣だ。右腕と左脚は籠手と足甲によって重々しく武装され、逆に左腕と右脚はほぼ素肌が露わになっている。 <萌芽>のマーニは優しげな面立ちを引き締め、動き出した。 其の四の八『外側で』 開始より半時間が過ぎても、いずれが有利であるのかをスクリーンに映された遠景像から判断することは出来なかった。 これが人間の戦であったならばまだ読めただろう。地形や天候、時刻、果ては兵の心理までも利用するとしても、だからこそ読むことが出来るのだ。だが、これは魔神の<戦>である。<火炎牛>は空を焼き、<氷蝶>は地を凍てつかせ、<風狼>や<雷鷹>は音の速さを容易く越えて飛び回り、<水狐>はその身を自在に崩して忍び寄る。しかもそれが万の単位で入り乱れ、潰し合っているのだ。軍人も一般人も天才も凡才もない。根本的に、人間では何よりもまず現状を捉え切れない。 無論、一郎にも判らなかった。ただじっとスクリーンを見上げている。 賭け率は3:1.4。下馬評でゼフィータ不利となったのも初戦以来だ。 話しかけてくる者はない。時間だけが確実に刻まれ、優劣は判らぬものの状況は動いてゆく。<戦>は終息に近付いてゆく。 一郎は白と黒の碁石を手の中で転がす。 スクリーンに桜が映る。今日も桜は貪り喰い、美しく花開いている。 結果はまだ見えない。見えないが、今もって桜が健在であるからにはおそらく、と推測出来た。 其の四の九『戦神』 薄い薄い赤が風に舞う。 双方の軍のうち、最後に生き残ったのはただひとつ、桜だった。 ミナクシュアはほくそ笑む。ほぼ最上にも等しい結果だ。魔神ゼフィータの擁する群れは、随分と減ってしまったこの桜のみ。あとは本体だけ。 屠るならば今をおいてない。閉鎖世界に干渉、無理矢理入り込み、改めて自らの手で世界を創り直す。 階梯を昇り切った魔神の創り出す閉鎖世界は、過程にある魔神のものとは別物だ。完成という意の織り込まれた世界の強度は桁が違う。この力をもって、完成した魔神は<災>を封じ込めるのである。 「……ミナクシュア!?」 「悪いな」 驚いた顔のマーニを有無を言わせず弾き出し、標的たるゼフィータへと向き直る。 「少々急ながら、<戦>を申し込む」 そして、観察した。 ゼフィータの灰白色の瞳に驚きの色はなかった。好戦も厭戦もなかった。ただじっと見つめて来ていた。 どうしようもなく苛立ちが湧き上がる。動揺や焦燥を期待していたわけではない。しかし、よもやこちらを見るだけが寄せられた関心の全てだとは思いもしなかった。 「……いや、断っても付き合ってもらうがね」 「よい」 そう言った瞬間、ゼフィータの内側で<力>が渦巻いたことにミナクシュアは気付いた。意味も分かる。保有する<力>で階梯を上げたのだ。 妥当、と言うよりも戦うのであれば群れを呼ぶだけの時間がない以上は全ての<力>を階梯の進行に注ぎ込む以外にあるまい。 それでも階梯は百五十程度だとミナクシュアは踏んだ。大丈夫だ。 だが、理解出来ない。何故もこう、容易く頷くのか。 「……正気か?」 「是否を問わぬと汝は言った。今問うたが、一郎も我の好きにせよと答えた」 回答は、やはりこともなく。 灰色の長手袋に包まれた右腕を僅かに揺らせば、そこには身の丈を越える長さの諸刃の大剣が握られていた。鈍い輝きすらない、灰色の刃だ。 ミナクシュアも右手に細身の剣、神器<舞踏伯爵>を顕現させる。 中空での対峙。空気の張り詰める暇もなかった。 先に動いたのはゼフィータだった。何の予備動作もなく、いつしかミナクシュアの目の前にいて、振り上げるところを見た覚えもない大剣は既に振り下ろされていた。 しかし刃はミナクシュアを切り裂いてはいない。目にも留まらぬ一撃は<舞踏伯爵>が受け止めていた。 常軌を逸した奇襲と、それさえも防いでみせる反応速度。表情を動かしたのは、防いだミナクシュアの方だった。 むしろ速さなど、どれほどのことだったろう。そのようなことは塵の如く吹き飛び、重さにこそ戦慄した。 刃が咬み合った瞬間に神器である<舞踏伯爵>が悲鳴を上げた。単純な衝撃が、そのくせ空間を圧搾するような力で襲い掛かった。 ミナクシュアもそのままではいない。力を殺し切れぬとあらばと、咬み合った状態から大剣ごと右へと流し、その動きのままに距離を更に詰めて密着、重い籠手に覆われた左拳を叩き込む。 ただの拳打ではない。全力で戦うならばミナクシュアの一撃は初期階梯の魔神を文字通り消し飛ばす。 それは見事、ゼフィータの額を打ち抜いた。打ち抜いたかに、思えた。 灰色の長手袋。寸前で籠手がゼフィータの左手に絡め取られ、貫いたのは重い色合いの銀髪の上の虚空。 至近で視線が交錯する。 己が左腕に半ば隠された灰白色の双眸は今もって透明だった。透明なまま、次の動きは起こった。 ミナクシュアの左腕が右へと引かれる。抵抗も忘れるほど優しく、吸い込まれる。 そして激痛が走った。いつの間にか引き戻されていた大剣が、ミナクシュアの左腕を肩から切り落としていた。最初の重い一撃とはまったく質の異なる、切ることに特化したような斬撃だった。 あまりの事態に何が起こっているか理解し切れず、それでもミナクシュアは到達した魔神だった。<舞踏伯爵>を消すと中空に舞う己が左腕を掴んで距離をとったのだ。即座に追撃して来るゼフィータには幾千もの剣を顕現させて降らし、妨害する。 「……<闘神>の力に<武神>の玄妙……」 左腕を接合しながらミナクシュアはようやく得心して呟いた。最初の一撃は<闘神>の系列の常軌を逸した出力であり今のものは<武神>の業なのだと、己の推測が正しかったのだと思う。 それ以上は思考も感情も浮かべておくことは許されなかった。降り注ぐ剣のうち、彼我を繋ぐ最短となる空間に存在するものが塵と化した。 再度の衝撃。またも、ゼフィータは既に目の前で大剣を振り下ろしていた。 ミナクシュアも今度は迂闊に返さない。斬撃を<舞踏伯爵>で遮った後は大きく後ろに離れる。ほんの少しだけの時間が欲しかった。 力を己が内に収束させながら、三度、四度、防いでなお叩き込まれる衝撃に耐えつつ高めてゆく。 いける。そう思う。 咬み合う刃、圧力に軋む身体、それでも耐え切れる。 力尽くで弾き飛ばし、ミナクシュアは謳った。 「踊れ伯爵、我らが狂乱の宴を開こうではないか」 まずは片手ながら大上段、それが右側へ大きく弧を描きながら足元へと降りてゆく。<舞踏伯爵>は移動しながら、その過程で姿を残していた。足元を過ぎて今度は左を通り、再び頭上へ上がる過程にも剣の姿が残る。 上下左右、そしてその間。剣は八つ残った。手元の<舞踏伯爵>を加えると九振りである。 「これを先の千剣召喚と同じと思うな、<灰白>のゼフィータ。<舞踏伯爵>が九つになったと思え」 <翔ける光>のミナクシュアの本気、<仮面舞踏会>。周囲の八振りは本体から大きく離れない限り維持され、自在に操れる。 初めて、ミナクシュアが先手を取った。 <翔ける光>とは距離を詰める速さを謳ってのものだ。先を取ったならば容易くは返させない。 九つの<舞踏伯爵>はミナクシュア自身から大きく離れることこそないものの、それぞれが別々の生き物のように襲い掛かる。それも、連携してだ。一つ目は二つ目のために、二つ目は三と四のために、三と四は複合して五と七のために。六と八は逃げ場を塞ぎ、組み立ての果ての九は致命の一撃を成さんとする。 恐るべきことに、ゼフィータはたった一振りの大剣でもって一を止め、二を弾き、三と七はまとめて潰し、四と五はかわし、六と八は読み切って無意味とした。 それでもミナクシュアの右手に握られた<舞踏伯爵>は、ゼフィータの左肩を貫いていた。 鮮血。飛沫がゼフィータの白い頬に張り付く。 ミナクシュアの動きは止まらない。止めるはずがない。 「お前の終わりのその時まで踊らせてやる、精々愉快なステップを踏むことだな」 対して、ゼフィータの表情は僅かたりとも揺らがなかった。九つの刃を大剣一振りと左手とで八まで確実にいなし、必殺を期した九つ目をただの傷に抑える。 攻撃も防御も人に見える領域のものではない。だが、完成した魔神の振るう力を知る者であれば、地味だと感じるだろう。誇張ではなく、巻き添えを食うだけで山は均らされ、湖は干上がるものなのだ。 そのようなものと比べたならば地味に見えるには違いないが、今この時も行使する力の量はまったく減少していない。最大級の天災をもたらすほどの力を漏らさず標的に対してのみ行使しているのだ。 大群を相手とする時のように周囲に被害を与えることが有効であれば破壊を効率的にばら撒き、強大な一体を葬る時には葬るべき対象にすべてを収束させる。それが魔神の戦いである。 「ははははっ、その剣、この<舞踏伯爵>の刃をよくぞそこまで防ぐ。いかな名の神器だ?」 問うミナクシュア。 ゼフィータはその問いに答えようもなかった。 既に満身創痍とも言える傷を受けつつ、倒れない。鈍らない。表情もやはり変わらない。 ミナクシュアにはそれが気に食わない。 「どうした、喋る余裕もないか!」 「否」 左肩を貫かれながら、それでも口調も表情も変わらない。 そして<舞踏伯爵>が何十度目かの一からの組み立てに入った瞬間、行動が変わった。 刃の合わされる音はしなかった。 九本すべてがゼフィータを切り刻んだ。 替わりに、大剣はミナクシュアの鎧を貫き、胸の中央に突き立てられ、貫通していた。 互いに、その程度で息絶えはしない。魔神の生命力と再生能力はいかな生命をも凌駕している。 貫いた刃よりも叩き込まれた力にミナクシュアの息が詰まり、そしてごっそりと命を吸われたことに愕然とする。 「貴様……!?」 九つの刃に襲わせる。傷を負わせるためではなく、距離を空けるためだ。今度もかわさないならば今度こそ屠れるであろうからそれはそれでいい。驚愕の中でもそこまでを計算し、実行する。 狙い通りにゼフィータは大剣を引き抜いて飛び離れ、大きく距離を挟むことになった。 灰白色のロングドレスは血に塗れているが、傷は小さい。 傷は小さいのだ。身体の半ばまで食い込んだものもあったというのに。今も見る見るうちに縮小してゆく。 ミナクシュアも早い段階から気づいていたのだ。ゼフィータは恐ろしい効率の再生能力を有している。再生と言うのもおかしいのだろう。自分が行うような力で傷を塞ぐ応急処置ではなく、在るべき姿に常時成ろうとしているのである。それを証拠に、ぼろぼろになっていたドレスまで綺麗に元通りとなってゆく。 気づいていて、それでも問題はないと思っていた。充分押し切れるはずだった。 しかしそれも覆された。ゼフィータは命を吸い、補填とした。最終的なゼフィータの消耗と自分の消耗のどちらが大きいのかは、楽観視してすらようやく互角だ。 「……そんな能力まで持っていたとはな、恐ろしい剣だ」 腕を切り落とされたときに発動しなかったのはまだゼフィータが傷を負っていなかったからか、と結論付け、なんということだ、と歯噛みする。神格にばかり気をとられ、強力な神器を持っている可能性を失念していた。完成した魔神の腕を容易く切り落とし、<舞踏伯爵>をあそこまで凌ぎ、生命喰らいの異能を有しているからには、<舞踏伯爵>よりも高位のものだろう。そもそも<闘神>と<武神>を兼ねていてもこれほどの強さにはなりえない。 確実に勝てるはずが、蓋を開けてみると互角。もう余裕を見せている段階ではない。 今度は、仕掛けるのは同時だった。交錯し、離れ、またぶつかる。 互いに身体に触れさせない。刃の結界がせめぎ合う。 ミナクシュアは攻撃を組み立てられないが、一太刀も受けない。今はそれでいい。時間が経てば与えた傷はすべて癒されてしまうとしても、優先すべきことがある。 狙うのは大剣だ。神器を破壊するのは同じく神器を用いてさえ至難の業だが、壊せないまでも叩き落し、引き離すことが出来ればいい。 しかし大剣そのものを捉えることが既に至難だった。九つの剣閃に大剣ひとつで互角に対応してみせるその剣速と手練は、いざ狙うとなるとミナクシュアの着いてゆける領域のものではなかった。 替わりに、ミナクシュアには覚悟があった。 大きく隙を作り、誘う。無理をしてでも正面から力技で斬撃を受け止め、弾き返し、どうしようもなく停止するその一瞬に残る八本によって突き崩す。失敗すれば真っ二つにされるであろう、それが使う手だ。 ゼフィータは一片の迷いも表さなかった。 剣閃は見えない。しかしまったく感じられなくなるわけではなく、罠にかかったことをミナクシュアは確信していた。 隙を作った分だけ遮るのが遅れた<舞踏伯爵>にかかったのは、かつてない重み。 「っ!?」 押し返すどころではない。飛行状態であるのに、全力で留まろうとしているのに、その抵抗ごと地表へと押し込まれてゆく。 そればかりか刃はじりじりと近付いてくる。 罠と知った上で正面から踏み潰しに来たのだと覚るも、どうしようもない。少しでも逸らそうとすれば目の前の刃は自分を両断するだろう。 離れ過ぎたために八本の分身は消えてしまっている。当初の目的も果たせない。 このまま叩きつけられ、その衝撃で抵抗を剥ぎ取られた瞬間に斬られる。その光景が浮かんだ時だった。 異変が起こった。 音もなく大剣が粉々に砕けたのだ。 自然、<舞踏伯爵>の刃がそのままゼフィータの喉元へと向かうことになる。訳が分からなくとも、ミナクシュアもこの千載一隅の好機を逃さなかった。向かう刃を操り、れっきとした剣閃に変える。 薙いだのは、それでも虚空。 逆に、胸部装甲にゼフィータの手が触れると、押された。 ゼフィータを上空に残し、ミナクシュアだけが加速する。しかし地表に叩きつけられるよりも早く空での移動の制御を取り戻し、再び上昇した。 魔神は戦いや命のやり取りに抵抗がない。そうであってなお脱力にも近い安堵が今のミナクシュアの心を占めていた。 何故に大剣が崩壊したのかは判らない。神器が壊れる様も初めて見た。 あれだけ<舞踏伯爵>を受け止め続けていたせいかもしれないとは漠然と思えた。 「は……」 判らぬままでも、思わず笑いが漏れた。 「砕いた、砕いてやったぞ<灰白>のゼフィータ! 神器がなければお前とて!」 勝ち誇り、しかしどうしようもない違和感に気づいて笑みが自嘲となる。思わず出たこの言葉、まるで格上に対するもののようではないか。相手は自分の六分の一にもならぬ階梯の魔神だというのに。しかも砕けたのであって砕いたのではないというのに。 認めたくはないが認めねばなるまい。<灰白>のゼフィータは神器を有していなかったとしても現時点で既に完成した自分に迫る力なのだ。 だがこれで勝てる。<闘神>であり<武神>であるとしても、確実に倒せる。 高揚に対し、ゼフィータから返って来たのは変わらぬ表情だ。 「汝は悪い夢を見ている」 「夢だと? これが夢か? 違う、現実だ。夢を見ているならば、それはお前の方だ」 「否」 ゼフィータは預言のように告げる。ミナクシュアによりも、半ば以上を一郎へ向けて。 「<夢>は埋伏する毒。カイナの残酷な腕。努々忘れるな。知らぬが」 そして、右手を少し動かすと、そこには灰白色の大剣が握られていた。 信じられないとばかりに、ミナクシュアはかぶりを振る。 「……馬鹿な」 <舞踏伯爵>を大きく振る。 「確かに砕けたはずだ! 神器が再生するなど聞いたこともない…………いや、まさか夢とはこのことか? 砕けたように手妻を見せたか!」 「汝はこの剣の名を問うたが、答えるに値する問いではない」 ゼフィータの言葉は淡々として、残酷だった。 「即席で創り出した武器に名はつけぬ」 「……何を言っている? 意味が分からん、出任せも大概にしろ」 ミナクシュアは鼻で笑う。 神器はどれほどの魔神であろうともその場で創生できるものではない。即席で創る武器など酷く脆弱なものにしかなりようがないのだ。 「よい」 分からぬならばそれでもよいとゼフィータは言う。 灰白色の瞳、色のない視線はミナクシュアを見透した。 酷く脆い大剣を力で補強、空を蹴る。 音もない。今までと同様の速度でしか反応できなかったミナクシュアの右腕が<舞踏伯爵>ごと舞う。 次いで、長手袋に包まれた手刀がいっそ大剣よりも鋭く胸を裂いた。生を吸い、己がものとする。 先ほど上った階梯にようやく馴染んだ。これで実際に百五十階梯だ。 ミナクシュアの推測は誤っている。 いかなる魔神を敵としても勝ち続けるならば、損耗する群れは要らない。<軍神>の傾向となる力はまったく必要ない。同様に、自分自身ではない神器も必要ない。要るのは己が身ひとつで永劫に戦い、勝利し続けることのできる能力と戦力だ。 一つの目的のために動く群れは人間に限らずその生物の中で最も高い力を示すものだが、魔神に限っては成り立たない。 <戦神>ゼフィータは<闘神>を上回る力と<武神>を凌駕する業、己の内側と外側の両方から無限に活力を得る異能を必然的に有している。加えて、不可欠ではないが群れがあるならばそれも効率的に利用するために指し手としても長けているのだ。 真に最強と冠せられるべきものは、思われているような生易しいものではない。陶酔を越えて拒絶を催させるほどのものなのだ。 まだ百五十階梯に過ぎないゼフィータは最強には遠いが、完成した魔神を相手取っても大抵のものに勝てる。 ミナクシュアに誤りを自覚する時は残されていなかった。馴染んで安定した動きが可能になったゼフィータには手を止める必要がない。 左から斜めに跳ね上がった大剣は軌跡のままに両断すると、更にもう一度返されて垂直に断ち割る。 容赦などあろうはずもない。理由など要らない。逆に、容赦しなければならない時にこそ理由が要るのだ。 ミナクシュアは速やかに葬り去られる。 魔神の遺体は残らない。世界に溶けて消えて無くなる。 「<夢>」 ゼフィータは呟く。 <夢>は見えない。触れられない。 しかしミナクシュアが消え去った後で其処に現れたそれをゼフィータは叩き切り、消し去った。 <戦神>の条件は、完成の暁にはいかなる魔神を敵としても勝利できる強さ。そして<戦神>であることによる力は、いかなものとも戦うことができることだ。<夢>とて例外ではない。 落下した<舞踏伯爵>が地に突き立つが、その地が消え始める。ミナクシュアの創ったこの閉鎖世界はミナクシュアなくしては維持できない。 ゼフィータは虚空をじっと見上げる。 ついに<戦>の中で一度たりとも変わらなかったまなざしは、やはり静謐な色を湛えていた。 其の四の九の後『重畳至極』 八百万単位。 それがミナクシュアから得た<力>だ。 無論、完成した魔神であるミナクシュアの内包する<力>はそれよりも多いのだが、すべてを得られるわけではない。 これでも極めて効率よく得ているのだ。階梯比が大きければ大きいほどに一気に流れ込んで来るおかげで霧散する量が減少する。今回は六倍以上という前代未聞の比率であったがために、ちょうど半分という異常な効率にまで達した。 ゼフィータはすぐさまそれをすべて階梯の上昇に費やし、三百五十階梯となった。一階梯を昇るのに必要な<力>はそれぞれ異なる。 窓から射し込む夕陽に、重い色合いの銀髪を煌かせ、ゼフィータがじっと見上げてくる。 「違うのだ」 唐突な台詞はいつものことだが、今回は何のことなのやら本当にまったく判らず、一郎は面食らった。 書きものの手を止め、見つめてくるゼフィータを見つめ返す。 灰白色の瞳にはささやかな動揺が見える。 「違うのだ。本質的には我に群れは要らぬが、汝が分身の無用であるわけではない」 それを聞いて、更に面食らう。非難した覚えがないどころか、思い浮かびさえしなかった。一郎にとって大事なものはそちらではない。 しかしゼフィータはそう思わないようだった。なおも続けようとする。 「あれは今後、いるだけで好いものなのだ。あれは……」 「それは重畳」 懸命な音がふと微笑ましく、一郎はゼフィータに手を伸ばした。 引き寄せられることにゼフィータは抵抗しない。ぽふりと、胡坐をかいた一郎の膝の上に倒れ込む。 髪を指で梳いてやる。 「お前がこの階梯に来るまでの力になったなら充分」 まるで父親が娘に言うように、そして半ば独り言のように声をかける。 「誇らしい話やないか」 「そうか」 ゼフィータは消え入りそうな声で、無表情に近くはありながらもどこか満足げに眼を閉じた。 一郎の膝に半身を乗せたまま、無防備に背を丸めた。 |