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八の字の巣穴

八の字の巣穴

其の五(前半)





其の五の一「封鎖領域」



 封鎖領域。あるいは閉鎖領域。
 それは完成した魔神によって創られた、<災>を隔離する閉鎖世界である。
 封鎖領域を展開した時点で付近に発生するはずの<災>の可能性をすべて封鎖領域内に引き寄せて実体化、人間の暮らす場所には顕現させない。どれほどの範囲を網羅できるかは魔神の力量によるが、半径200kmを中央値とする。
 閉じ込められるのはあくまでも展開した時点での影響範囲内の可能性であり、それ以降に現れた可能性ならばそこからでも顕現するため根絶の手段にはなりえないのだが、それでも封鎖世界展開後三年の時点で<災>の発生数は千分の一以下となっている。
 魔神の顕現数の多い日本は完成した魔神の数も多く、そのおかげというばかりではないものの結果的に遥か南海の孤島とその周辺以外はほぼすべて網羅されている。
 その中でも最大の封鎖領域を背負う魔神の許へと、一郎はゼフィータを連れて訪れていた。
 世界そのものにも関わりつつ展開されているためにこちら側の土地も楔としていくらか必要となり、またそれを成す魔神もその場を動けない。会うことは難しくない。
 まばらに草の生える原から緑の森への境、閉鎖領域の入口に彼女は立っていた。
 小柄な身体を群青の上衣がすっぽりと覆い、高い位置で一つに括られた白金の髪が陽光にきらきらと長く腰まで降りている。
 顔の上半分は鳥を思わせる複雑な意匠の凝らされた仮面で覆われていて年の頃は判別しがたいものがあるのだが、十代半ばから後半ほどの容貌なのではないかとは推測できる。
 彼女へと、声をかける。
「久しいな、カレン」
 すると、彼女の薄い唇の端がきゅうっと吊り上がった。
「……私をそう呼んでよかったのはこの世に二人だけ。それ以外は塵も残さないわ、覚悟はいいわね……?」
 か細い、それなのに確かに耳に届く声。
「一人は私の死んでしまった契約者……もう一人はその知り合いの馬鹿……」
 相変わらず美しい声だ。<歌姫>の神格の一端がそこにある。
 彼女は細い肩を揺らした。
「……残念。久しぶりね、お馬鹿さん……一体私に何の用なのかしら?」
「お前さんの封鎖領域の<災>を掃除しに来た」
 旧交を温めるでもなく即座に一郎は本題に入る。
 <力>は魔神とその軍勢からしか得られないわけではない。<災>もまた、源と出来る。
 <戦>を受けてもらえなくなった時の手段として以前から考え、厚生労働省に申請してあったうちの片方がこれだ。先日許可が下りて、<戦>の免除と封鎖領域への進入を法に則って行えるようになった。既に三つの封鎖領域の<災>を屠り尽くし、解放して来た。
 日本で初めての試みというわけではない。以前、こういう手があると助言したことがあり、実行した者もいる。
 しかし、有名にもならない。<災>から<力>を得る場合、効率は群れから得る時の十分の一にしかならない。こちらも群れを使えば必ず足が出ることになり、必然的に魔神単体で戦わなければならないということになる。実行できるのは、高い素質を持ち、階梯が数百以上に達した魔神だけだ。
「……なるほど、<戦神>であれば私の封鎖領域でも大丈夫だと、その無い頭で考えたのね……」
 彼女が網羅するのは半径800kmに及ぶ範囲、彼女の背負う封鎖領域は日本はおろか世界最大のものだ。想定される<災>の量も並みの封鎖領域の五十倍以上になる。
 そして、この封鎖領域には<災>とは異なる強力な個体が含まれていた。<災>ではなく、この強力な存在こそが魔神に対応するものなのではないかと一郎は推測している。
「……知らないわよ?」
 彼女がゼフィータを仮面の奥から見る。
 ゼフィータは無表情に頷いた。
「よい」
「……あなたも……知らないわよ?」
 今度はまた一郎を見る。同じ知らないでも、意味は異なる。愉快そうに笑う。
「……あなたと<戦神>は此処の<災>を消し尽くすつもり。でも許可を出した輩は、まさか私のところに来てしかも封鎖を維持する必要をなくすところまでやるなんて夢にも思っていないはず……さぞ激怒するでしょうね」
「そうさな」
 一郎も苦笑いした。
 実のところ、封鎖領域を維持しておく意味は、<災>に関しては何もない。維持している間ずっと<災>の可能性を取り込み続けるのではなく、あくまでも作り出した時点の可能性を集めて<災>として実体化させるだけだからだ。内部に詰め込まれた<災>を早々に消し去って魔神を解放してしまった方が戦力も増えていいこと尽くめなのだ。
 彼女の場合はそもそも中の<災>たちを駆逐できるだけの戦力を集めるだけでも大変だということもあるが、それとは別にあえて避けられてもいる。
「知り合いを解放できる手段があるのに放っとくわけにもいかんし……あの特殊な奴も調べてみたい。何よりお前さんには手伝って貰いたいことがある」
「……ふふふふふふふふふふふふふふふふ、あはははははははははははははははっ!」
 今までの印象を一変させて、させたように見えるほどに大笑する。
 一郎にとっては特に変わってはいない。彼女は昔から、本当に笑うときは狂的な響きが強くなる。
「いいわ、掌を返されるがいいわ! 裏切り者と罵られるがいいわ! 精々笑ってあげるから!」
「なに、お前さんを解放するんと大差ない非難をもう一つ……二つかもしれんが受ける予定がある」
 既に覚悟は決めた。彼女の嘲笑も受け流す。
 一郎は彼女の名を正式に呼んだ。
「この話に乗るか、<歌姫>ンキュルコス=フェ=カレン?」







其の五の二「点火」



 並みの魔神の封鎖領域に封じられているのは、およそ二十万の<災>だ。それは魔神の使う二十万の群れに等しい戦力である。
 掃討するということは、魔神単体でそれだけの戦力を滅ぼし尽くさなければならないのだ。
 当然ながら、一度でなど<闘神>の神格を持つ完成した魔神でもなければ成し遂げられない。だから幾度にも分けることになる。
 ンキュルコス=フェ=カレンの封鎖領域には一千万を越える<災>が封じられている。それだけの数になると、一度入れば危なくなったからといって退かせてくれない。息もつかせぬ戦いの連続となる。
 だからどれほどの魔神であろうとも掃討することは不可能だと言われていた。もし行うのであれば何十何百という魔神を一斉に送り込むしかないと。
 ゼフィータはそれを単独で成し遂げて来なければならないのだ。
 一郎も暴挙だとまでは思わないが少なからぬ冒険になるとは見ている。が、それ以上の見返りはある。ンキュルコス=フェ=カレンへ語ったものに加え、もう一つ目的があるのだ。
 <災>を屠ることによって得られる<力>はその強さによって異なるが、平均すれば一体当たり三単位となる。
 突入した時点でのゼフィータの階梯は四百。そこから完成するために必要な<力>は二千四百万単位。一千万の<災>であれば三千万単位を得られるはずなので、完成した上でお釣りが来る。
 余剰分は群れの必要ないゼフィータにとっては文字通りの余りだが、一郎の予定を成し遂げるためには必要不可欠だ。
 失敗すれば命を落とす。恐れはあるが、口の端に大きく笑みを浮かべて圧殺する。
 この胸の向こう、繋がった先のゼフィータは惑いなく戦っていた。
 自分もまた、戦わねばなるまい。
 一郎は研究室の椅子の背もたれに体重を預け、眉根を寄せた。
 厚生労働省からの反応がないのだ。
 意見書、申請書、何度送ってもひとつの計画に関わるものに対してだけは反応がない。あるいは面会を求めても拒否される。
「……これは無視にかかっとるか、厚労省」
 低く呟く。
 これまでも奇妙だとは思っていたのだ。
 反応がないのは前々からだが、今までは成算がなかったために強くは推さず、だから向こうも重視しないのだと自分を納得させていた。しかし図らずもゼフィータの存在により成し遂げられるようになった今、幾度も強く推したというのに綺麗にこの項目だけ反応を得られない。
 成し遂げられるならば一日でも早く創った方が良いことである。この三年を切り取れば、日本では二千の魔神が現れ、消えている。一日につき二柱の魔神と二人の契約者が命を落としている計算になる。一日遅れるということはそれを見捨てるということだ。
「ふむ……」
 眼鏡の位置を直す。
 是非もあるまい。勝手にやらせてもらうことにする。
 人間である一郎には<災>と戦うことなど出来ない。相手は無論、人間である。
 そして武器は、この面の皮の厚さだ。







 其の五の三「Demon Blood」



 読み込みの音に、もしかしてと、どきりとした。
 クォータービューマップがアニメーションムービーに切り替わった。
 渦巻く黒。それがやがて流れとなり左右に分かたれる。
「おっ……おい、おいおいおいおいおいおいっ!?」
 画面の前で大地は押さえ切れぬ興奮を漏らした。
 ごくごく低い確率でランダムにしか出現しないので会えたら御の字と思っていた相手。四周目にしてとうとう会えるのかと、期待のあまり身を乗り出していた。
 二つの黒の流れが完全に左右に分かれた。黒翼の取り払われた向こうには、これまた黒のロングドレスに身を包んだ女が一人。
 彼女は蒼碧に煌く長い髪をかき上げ、にぃ、と笑った。
『……ふぅん……あなたが、ね』
「来た! エクサフレア出たっ! うはーっ」
 コントローラーを握り締めたまま大地は身悶える。真夜中の自室だからいいようなものの、見る者があったならば気圧されて思わず仰け反りそうな勢いだ。
 無論、それほど喜ぶ理由はある。
 <神魔>エクサフレア。
 <黒き翼>のエクサフレア。
 世界に初めて顕現した魔神であり、かつ唯一完成した状態で現れた個体でもある。
 聖性と魔性、浄化と侵蝕の相反する特性を自在に切り替えることの出来る彼女は、<闘神>の神格を有することとも相まって、紛うことなき最強の一角である。
 たとえゲームであっても、自他共に認める魔神好きである大地がエクサフレアを見て興奮しないわけがないのである。
『いいわよ、契約してあげても。わたしに勝つことができたらだけれど、ね』
 エクサフレアの宣言に続き、出撃ユニットの選択画面になった。
 さて誰にしようかと大地はカーソルを迷わせる。前周で仲間にしていたユニットを一部引き継げるため、既に強力な魔神が幾柱もいる。何柱出せるかは時によるが、今回は二柱だ。
「まずはジェナシァルだよな……」
 <竜王>ジェナシァル。西式召喚を得意とし、強力なドラゴンの群れを展開する魔神だ。自身も皮膜めいた翼を持ち、耳の後ろから湾曲した角が生えている。
 <闘神>の神格を持ち、今大地が有する中では最大の個体戦闘能力を発揮する。
「あとは……」
 もう一方は迷った。<闘神>、<武神>、<軍神>と並べられはするものの、三つの神格の中で最も強力かつ確実に強さを発揮するのは<闘神>だ。対抗にはやはり<闘神>が望ましい。
 しかし同時に、<闘神>であればすべて同程度の強さを持つというわけではない。<武神>とあまり強力とは言えない<闘神>と、今回は果たしてどちらがいいのだろうか。
 <軍神>という手もあるが、群れはエクサフレア本体までの道を切り拓く役にしか立たない可能性が高い。意義は少ないと見る。
「……よし、ガラハティアで。折角だし」
 選んだのは、開始時に最初に契約する魔神として特性や数値を増減させることの出来るユニットだった。無論、現実には存在しない。
 特性は<闘神>、だからというわけではないが名前は<闘神>の代名詞となっているレフィレティアの後ろ半分を組み込んで付けた。
 ガラハティアは力量的には四番候補くらいだ。それでも選んだのは、有利不利よりもゲームなりとも自分の魔神と戦わせてみたいという浪漫からである。
 戦闘開始を選ぶ。
 フィールド曲からして聞いたことのない固有のものだった。しかも歌付きである。和太鼓めいた重低音が強いリズムを作り、ハスキーな女声がその波に乗る。どこか悲壮な旋律は否が応にも気分を更に高めてゆく。
「うーわ、ラスボスにも歌入ってねえのに」
 嬉しそうに呟きながら群れを展開する。ガラハティアは召喚が得意とは言い難いため、ジェナシァルのドラゴンが中心となる。
 展開完了。さあいよいよだ、と思いながら画面をスクロールして、ようやく見ることの出来るようになった敵陣容に目をやった瞬間、大地は吹いた。
 <天使兵>と<魔性兵>の群れ、群れ、群れ。数えてみるとそれぞれ十八部隊、一部隊は六百体なので総計二万体を越える。
 一方こちらはと言えば、総数一万二千だ。ドラゴンは強力だが一部隊の数が少ない。おまけに、<天使兵><魔性兵>の方が一体当たりの戦力でも勝る。こちらが勝っているのは部隊数だけだ。
「……まずった、<軍神>が正解か!」
 四周目の慣れが油断させた。あるいは睡眠時間を削りに削って遊んでいた所為もあるだろうか。
 マップ移動中にエンカウントするエクサフレアとの戦いはやり直しが利かない。
「ああ、もう、このまま行くしかないか!」
 是非もなし。胆を決める。



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『夜よ集え、闇よ凝れ……ほぉら、どこまで耐えられるかしら、ね? ふふっ、ふふふふ、あははははははっ!』
「カットイン長っ! 胸揺れすぎ揺れすぎっ!」

『あら、脆いのねえ……詰まぁんない』
「ちょ、強っ!? エクサフレア強っ!」

『これでお仕舞い……結局大したことはなかったわ、ね』
「うああああああ…………」







 其の五の四「魔神学者」



 学問は一面において、石を積み上げて山を作ることに似ている。
 今まで積み上げたものを足場に更に高く積み上げる。不適格なものは転げ落ち、あるいは歪なまま居座ってしまったことによって後で少し崩して積み直す必要が出てくることもある。高くなるとともに裾野は広がり、様々な方向から登ることが出来るようになる。
 そして最初の最初、土台となった石は見えない。磨り潰されて姿すら変えているかもしれない。
 魔神学はその最初の石を積み始めている段階だ。
 魔神は人が作り上げてきた文明を外れた存在である。物質文明は勿論、精神文明もだ。だが、何もかもが異なる存在ではない。本当に徹底的に異なるものならば人は交流を持つことなど出来なかったろう。
 だから、他山の石がどれほど使えるのかが分からない。まったく使えないわけではないが、間違いなく多くは使えない。
 科学にはまずは物差しが要る。そうでなければ客観的事実を示せない。そしてこの物差しは他山の石を使わずには成り立たない。
 使える石は果たしてどれなのか、魔神学は試行錯誤をしている最中である。
 様々な物差しが提案され、色々な説が提唱され、しかし多くは反例を示されて少なくともそれでは十全ではないことを証明されてゆく。
 まったく新しい物差しもある。魔神の方からもたらされた、<力>の単位だ。今のところ極めて正確であるのだが、魔神の申告でしか計れないため客観性に欠ける。
 そんな中、一郎にも魔神の行使する力について説が一つあった。
 階梯説。
 人の言葉では表現しえぬ幾重もの階梯があり、それぞれの階梯から見た世界があり、例えばここで腕を振るという行為はそれぞれの階梯で別々の機序で動いている、という仮定を基にした説だ。
 力や事象には最低階梯があり、それより下の階梯の機序でははたらかず結果のみが現れる。魔神が物理法則を無視するのは人間の観測できるよりも高い階梯で振るった力によるものである、ということになる。そしておそらくは魔神の間でもどこまでの階梯の力を振るえるかは異なる。
 逆に低い階梯での力は、より高い階梯でも同時にその階梯での機序ではたらき、影響を及ぼす。だからこの仮説に基づくと、人間の兵器は魔神に対して絶対的に無力なのではなく、根本的に傷を負わせることの出来る強さではなく相対的に効いていないのか、高い階梯で防がれているということになる。
 概念が広い上に観測不能で確認出来ないため、反例を突きつけられたことはないが今のところ証明も出来ない。それでも今までの一郎の実績のおかげか一説としての地位は得ている。
 生まれて日の浅い魔神学者の出自は様々だ。元物理学者がいれば考古学者もいる。比較的年若い者が多いものの、七十を過ぎてからから笑う老人も一郎の知り合いにいる。
 昔は神学者やオカルト方面の人間も少なくなかったが、方向を間違え過ぎた所為か最近は真っ当に学者をやっている者は見ない。主に新興宗教の教祖か権利団体の顧問をしている。
「……また碌でもない奴が」
 手紙の文面に一応目を通し、一郎は専用の引き出しへとそれを放り込んだ。今のところは残しておいても何の足しにもならないが、いつか追い詰める際の証拠として使えるかもしれないと置いてある。
 内容は、魔神の権利を謳う団体への勧誘だ。要は名が欲しいということである。
 心底消えてなくなって欲しいのだが、聞こえのいい言葉と精力的な活動と金はどうにもしぶとい。一度潰そうと働きかけたことがあるのだが、駄目だった。こちらもあまり大っぴらに動くわけにゆかず、どこかで圧力がかかって立ち消えになった。
 魔神学者としての一郎の最高の武器は、非常に多くの魔神と親しいことだ。彼女たちとの触れ合いそのものや自らも覚らぬ知識を引き出すことによって、魔神を知ることが出来る。階梯説も発端はそこだ。
 ただ、必ずしも良いことばかりではない。
 魔神は権利など要求しない。必要がないのだ。人間が認めようが認めまいが、その気になれば何でも行うのだ。間の抜けたことを言っている輩のことを耳にしても気に留める価値すら感じていないだけなのである。
 それが気に留めて、鬱陶しいと感じたならばどうなるか。
 親しい魔神は一郎の言うことをまともに聞いてくれるが、聞き入れてくれるわけではない。思ったままに行動に移すだろう。
 それは、主に人間にとって不幸なことになる。
 一郎は人間よりも魔神を大事だと思っているわけではない。
 人間を魔神より大事にしているわけではないだけなのだ。
 おかげで魔神学者の間でも変人で通っている。







 其の五の五「知識」



 一郎の立場は准教授である。しかも去年から教授はいないので教室で最上位となる。
 日本では珍しいと言っても差し支えないことだが、何分真っ当な魔神学者そのものが少ない上に若年者の比率が高いので他に任命できる者がいない。世間の印象とは異なり、三十の魔神学者はむしろ年嵩の方である。
 しかし教室の代表を助教や講師にするのも体面の問題があり、助教としての実務経験と業績にも問題ないこともあって、准教授になったのだ。
 一昨年までいた教授が元は生理学を教えていたため教室の右隣は生化学で左は第一病理学。大学の方に講座は持っておらず大学院だけなので、講義に駆り出されることも少ない。ちなみに、生理学教室は二つあったので今も一つ残っている。
 教員は助教が一名、大学院生は修士課程が三名、事務が一名。小ぢんまりとした研究室である。年明けあたりには教授が着任して増えるかもしれない。
 多くもない部屋の一つはメンバーの憩いの場で、コーヒーや茶菓子が用意されており、昼食などを摂ることも多い。
 その部屋に踏み入った瞬間に聞こえてきたのは、女の声だった。
『夜よ集え、闇よ凝れ……ほぉら、どこまで耐えられるかしら、ね? ふふっ、ふふふふ、あははははははっ!』
 院生の一人がゲームをしている。
 画面の絵に見覚えがあった。いつぞやコマーシャルで見た、誇張されたエクサフレアだ。
 それはひとまず置いておく。
「……あのな粟飯原君、遊ぶな云々以前に電気窃盗扱いになるんやが」
「あー大黒せんせ、今ええとこなんですもうちょい勘弁」
 返事はぞんざいだ。振り返りもしない。
 粟飯原武弘。明るく人懐こい男で、院生の中では最も優秀なのだが、些か態度が悪い。
 どうしたものかとため息をつく。人間をまとめるのはどうも苦手だ。早く次の教授が来てくれないものだろうか。国内のまともな魔神学者は全員知り合いなので、そのうちの誰かなら誰でもいい。
『この一撃で逝きなさい! もっとも? まだ楽しませてくれるのならそれでもいいけれど、ね!』
「うっは~」
 ばしばしと武弘は自分の膝を打つ。
「せんせせんせ、見てくださいこの揺れっぷり、本モンもこんなんなんですかね?」
「無茶言うな」
「そういや大黒せんせてエクサフレアとも知り合いなんでしたっけ?」
 やはり振り向かない。
 返事は少し遅れた。
「……まあな」
「本モンもこんなエロスなねーちゃんなんですか? いやもうこの大きさのキャラグラでも胸と脚が……」
 賑やかな武弘の声が途切れた。
 後ろから白い腕が首に絡められ、背中にはとてつもなくやわらかい感触、そして耳元で気だるげな囁き。
「……どうかしら……? わたしは……あまり似ていないと思うけれど、ね……?」
「いや……え?」
 さしもの武弘も硬直している。その頬がくすぐられる。
 ふわりと、黒い翼が身体ごと包み込んだ。毒々しいまでに甘い匂いもまた、包み込んで来る。
「ふふ……そんなものを見て何を考えていたの? 恐ろしいところへ連れ去られたいの? ええ、勿論……冗談だけれど、ね」
 低めの声だけで総毛立つ。
 そしてぬくもりとやわらかさは離れる。匂いだけが残った。
 それでも武弘はすぐには動けなかった。
「え? いや、ええっ!?」
 勢いをつけてようやく振り返る。
 一郎の隣には、一対の黒い翼を持った、黒いドレスと蒼碧の髪の女。
 年の頃は人間で言うなら二十歳か、それよりも少しだけ上。成人男性として平均の背丈である武弘よりも少しだけ背が高く、戯化されたイラストほどではないものの露骨なまでに目立つ胸の膨らみの下で悠然と両腕を組んでいる。
「……エクサフレア、よ。別に……覚えておいて貰う必要はないけれど、ね」
 こちらはゲームとはまるで異なり、落ち着いた、気だるい口調だ。
 見下ろして来る美貌も同様の色に染まり、ひどく退廃的な色香を溢れさせていた。
「……でも、よかったわね? これから顕現する子たちは、そんなものをする人間としてあなたを知っているかもしれないわ……さすがにちょっと、微妙かもしれないけれど……」
「は?」
 意味が分からないのか、武弘は目を丸くする。
 そういえばこれは教えていなかったかもしれないと一郎は思い出した。
 エクサフレアは混沌的な力を有している。<神魔>の神格はそれを現したものだ。
 その力で世界に干渉し、何かを自在に創り上げることにおいて彼女の右に出るものはない。
 加えてもう一つ、極めて重要な特性がある。エクサフレアが強烈に印象を抱いたものは世界に浸透し、いまだ生まれざる魔神の基礎知識となる。
 新たに顕現した魔神に人間社会のすべてを説明する必要がないのはこの特性のおかげなのである。
「……ふむ」
 口を開きかけて、やはりやめておく。
 妙なことを考えられると、困る。









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