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エレファントピア

エレファントピア

少女ムシェット(フランス)

「少女 ムシェット(Mouchette)」1967年 フランス 
ロベール・ブレッソン監督

mouchette

ブレッソン監督の作品を見るのは、5作目です。
「ラルジャン(1983)」、「裁かるるジャンヌ(1962)」、「バルタザールどこへ行く(1966)」、「スリ(1959)」そしてこの、「少女ムシェット(1967)」。
この人のつくる映画は、いつもいつも、マジ暗い。というか、重たい。

でもこの重さの分だけ、映画を通して、言いたいこと、伝えたいことのあった人なのだろうなあ。


あらすじ→ (Wiki)

比較的短い映画です。79分。そして静かです。主人公の14歳の少女の、木靴の音だけが、いつもカツカツと鳴り響いています。ムシェットの台詞も、数えられるほどしかありません。
ちなみにムシェット(Miuchette)というのは、フランス語で「小さな」「蝿などの羽虫」、つまり「小バエちゃん」です。まさか、本名ではないでしょうが。。

罪のない普通の少女が、貧しさゆえに無視され、虐げられ、利用された先に…というお話です。
唯一愛していた母親にも死なれ、父親は暴力を振るい、学校では無視され友達もいず、挙句の果てに密猟者の男の秘密を知ったことで、レイプされてしまう…。これでもか~これでもか~~と、彼女がなすすべもなく不幸に落とされてゆく姿を描いています。


以下、かなりネタバレをしつつ。

多分この映画の最も描きたかった部分は、この不幸の内容とかプロセスではなくて、最後の10-15分、病床の母親が亡くなってからではないかと思います。

母親が亡くなった朝、彼女はいつものようにコーヒーを準備し、まだ赤ん坊の妹のためのミルクをもらいに外に出かけていきます。
いつもは全く無視だったお店の奥さんが、彼女を招き入れ、コーヒーと食べ物を与える。哀れみにさえ慣れていない彼女は、最初は当惑し、そして怒り、拒絶します。村の慈善家のおばあさんからは、死んだお母さんに、と死装束のためのドレスを渡されます。その間、彼女は一心に汚れきった木靴で、おばあさんのカーペットを汚し続けます。
「ふざけるな、この偽善者め。そんな気持ちがあるのなら、なぜ母が生きていたときには、何もしなかった?死んだ人間に良くして、それで自分は救われるつもりか?“お前の”ために、なぜ自分が施しを“受けてやらなければ”ならない?」
そんな気持ちを、監督は現したかったのでは。


結局ミルクは手に入れられないまま…。彼女は森に行き、そこで猟師たちに追い詰められ、撃たれ、死んでいく兎を目にします。死に行く兎を見て、彼女が次ぎに向かったのは、沼のほとり。

沼のほとりで、母親のためのドレスを身にあて、沼への傾斜をごろごろと転がり始めます。よく、子供の時に、こうして草原を転がって遊んびました。あんな感じで、とても子供っぽく。
しかしこれは彼女の考えた自殺の方法なのです。何度がトライしますが、なかなか上手く沼へ転がり落ちることが出来ません。

なぜ彼女は自殺を決意したのか?というところは、これまでの不幸プロセスが説明することろなのですが、少なくとも自分を愛してくれた唯一の人間「母親」の死により、自分の喪失に影響を受ける人間が全くいなくなったこと、さらにレイプによって将来の未知の恋や愛に対する幻想をすでに少女が失ってしまったこと、があると思います。まさに「生きていてもしょうがない」というレベルに達しているわけです。。

そうこうして転がり疲れた頃、偶然トラクターに乗った村人が対岸を通り掛ります。彼女は思わず手を振って呼び止めますが、村人はちょっと目をくれただけで、彼女を無視していってしまいます。このシーンで、完全に彼女と村(彼女の属するコミュニティ)との関係が断ち切られてしまいます。

それで彼女は意を決して、また転がり始めるのです。



どぼん

と、濁った音がして、後は沼の湖面がゆれただようだけ。


終わり。


ひー(T_T)


しかしよく見ると、この最後の沼面のシーン、2-3秒ごとに繰り返されているのです。
ムシェットの身体も浮かんできません。
このシーンだけは、映画内の「現実」ではなくてより抽象化された「虚構」へと移行している。
つまり「死」ということだけが、切り取られて、美しい音楽と共に、ずっと映し出されているのです。

まだ生きている観客から見ると、この映画は社会派で、少女の死を通して、なぜ彼女は死ななければならなかったのか?というメッセージを汲み取ることが出来ると思います。
だけれども、また、この最後のシーンは、私に、「死」とはそんなに悪いことか?選択してはいけないことなのか?本当にあってはならないことなのか?と語りかけてくるようにも思えました。

この時代、自らもキリスト者であった、ブレッソンにしては、尚のこと。カソリックでは「自殺」は原罪にあたります。
少女が選んだ「罪」に対しての、現実(=不幸のどんぞこ)、という対比としてみると、死ぬことさえも許されない、精神的な閉塞感への挑戦、、のような気もします。

しかし私はクリスチャンではないので、やっぱりよく分からない。


この映画はその後「ロゼッタ」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にも影響を与えたと言われています。確かに女性の主人公の不幸の見本市みたいなところは似ているかも…。

ただ、「ダンサー…」も「ムシェット」も、主人公は社会的にも家庭内でも脆弱で、守護者もいなければ、自分の身を守ることもできず、なすすべもなく不幸へと引っ張られていくのですが、比べると「ムシェット」の方がまだいい、というか、私は好きです。
「ダンサー」では死さえも周囲の人間から与えられ、逃れられず、主人公は冤罪で死刑となります。
でもすくなくとも「ムシェット」は自ら死を選び、実行して、死んでいった。

もちろんどちらの死も、死と言う点では一致しており、
“生きている人間から見たら”、悲惨以外のなにものでもないのだけれど。



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