2007/10/28(日)10:26
甘やかしの構造
今朝のテレビでも相変わらず亀田の事ばかり、あーでもないこーでもないとまるで皆が解説者になったかの如くにぎやかだ。
でも先日の亀田興毅の会見に対する思いを語る時、「20歳なのによく頑張った」とか「まだ20歳なのに家を代表という態度で堂々として立派だった」などと絶賛されるのだ
20歳だったら当たり前だろうが
20歳になれば大人としてみなされるからこその選挙権であり、成人としての扱いになるのだろうに。
「まだ20歳」なんて言葉が出るような甘やかしの構造があるから現代の若い人達が手に負えなくなるのだと思う。
16歳だろうが18歳だろうが凶悪極まりない犯罪を平気で起す奴等が増えている。
そういう中には未成年という大義名分の下に死刑も氏名公表もされず、数年後には反省して生まれ変わる事も無いまま再びシャバに現れるのがいる。
そうやって大人以上に悪い未成年を甘やかしたり、20歳を過ぎていても何故自分が一体何に対して謝罪しなくちゃいけないのか完全に理解してないまま稚拙な謝罪をした事を「立派に謝った」として「偉い」と言って甘やかす矛盾した世間の態度。
日本人の自立できない性質から来る一面だと思う。
謝ればそれ以上責めるのは可哀想だとかなら警察はいらない。
「いけない事は何時だっていけないし、誰であろうが悪い事は悪い。」
同情や憐憫と根本的に意味が違う、何がどうなろうともこの事だけは変わらない理念である。
子供は何歳になっても可愛いし大切で守ってあげたいと思うのは当たり前の親心である。
でも20歳を過ぎたら自分で自分を律して己の言動に責任を持てるように育てる事こそが親の義務であると思っている。
だから「20歳にしては立派」とかいう言葉は絶対に出ないし理解出来ない。
甘やかし馴れ合って周りに頼らなければ何一つ自信を持って出来ないような人間を育てる社会には大いなる疑問と不安を感じる。
若者が安定せず成長しきらない社会とは平和だと言う事かもしれない。
社会的に大きな危険がある場合、若者のエネルギーは驚く程の成長と膨張を見せ、時にはそれが革命を起こさせる原動になる事もある。
それを考えると20歳になってもあんな会見しか出来ない奴は20歳の欠陥だとしか思えないし、それを「20歳なのに」と絶賛していた野球解説者の江川とか本木とかのスポーツ関係者とうなずいていた芸能関係のレポーターや司会者達、全員が甘やかしの土壌を作って来た。
生まれてから20年しか経っていないとしても、その20年間には驚く程様々な事を経験して考えて思い悩み自分自身の考えを持つだけの充分な余裕と機会がある。
それを受け入れて活かせるようにアドバイスするのが親の役目であり、思想を決めて「あげる」のは親の役目では無い。
感じて考えて決めるのは子供本人であり、我が子とは言え子供は「別人格」なのだと理解していなければならない。
親には短くも20年足らずの時間しか成長を助けて独立させるという大仕事を成し遂げる時間は無いのだ。
20歳過ぎたら自分の行動や言動には責任をきっちり取れて当たり前
社会的なしきたりや人間的道徳心を持つのも当たり前
20歳とは独立した人間になったとみなされる事なのだ。