甲子園2
甲子園の話題ついでに、手前ミソなネタをひとつ。時は遡って2001年春、片田舎のある進学校が、夢舞台への初出場を決めた。第73回のセンバツから導入された、彼の地へと続く道……。21世紀枠である。これは恵まれない環境の中で練習を積み、秋季都道府県大会ベスト8以上に進出したチームなどを対象とする特別推薦枠である。甲子園への出場経験はないが、高校野球に相応しい活動を実践しているチームへの、いわばボーナスというわけだ。全国数千もの候補の中から選ばれたのは、沖縄の宜野座高校と福島の安積高校。そして、後者こそ100年以上もの歴史を誇る「我が母校」なのだ。3月25日、この日は大会の初日だった。相手は北陸の強豪・金沢。安積は戦前の予想を覆す大健闘を見せた。結果は1-5だったが、実際は点差よりも引き締まった試合ではなかったか。先制されるまでは、どちらかというと安積のペースだった。先発の坂井友樹を攻める安積に対し、金沢は2回から2枚看板の片翼・中林祐介(現阪神)が肩を作り始めていたし、3回に献上した先制点もアンラッキーな要素が絡んでいた。序盤の攻防で流れがガラリと変わった可能性もあったのだ。翌日のスポーツ紙には「価値ある1敗」だの「歴史的1点」だのという表現が用いられた。確かにそうだ。それまでの安積にとって、甲子園の舞台は、遥か西方にあるという天竺よりも遠い場所だった。グラウンドにはいつも「甲子園で校歌を歌う」というプラカード。しかし、それは望んでも叶わぬ夢だと思っていた。とはいえ、応援だけは凄まじかった。何せ1000人を超す生徒全てが男子なのだ。男子校ならではの大迫力。この時も、アルプススタンドには5000人もの大応援団が駆けつけた。夏の地区予選、生徒達は挙って夏季講習を抜け出して応援に行く。進学校の安積において、野球の応援以外の欠席理由は認められなかった。生徒らは試合観戦ではなく、応援を楽しむために球場へと足を運んだ。地元の新聞は、試合そのものよりも学ランの応援団を大きく取り上げる。大きな旗と鳴り響く太鼓の音、そして声を枯らすほどに張り上げられた声援。新入生は入学早々、応援歌練習なるスパルタ教育を受け、伝統の応援様式を身に付けていく。場数を踏むと、何かが弾けたようにハイテンションになって応援するようになる。初めは鬼のように見えた団員達も、次第に仲間意識が芽生えてくる。攻撃のときも、守備のときも安積の応援が途切れることはない。暴走気味の応援に、一部では「マナーが悪い」とのクレームがあるようだが、あの非日常的な空間と解放感はとても好きだ。卒業して間もなく、応援団は一時危機に陥った。団員がいなくなってしまったのである。これが時代の流れというものなのか、あまりにもストイックで時代錯誤な慣習は、生徒達に受け入れられなくなっていた。しかし、応援団は復活した。そして、甲子園という晴れ舞台に立ったのである。現役よりも盛り上がる卒業生達。そこにはいつか見た、懐かしい光景があった。明けて4月からは共学となった創立119年の我が母校。彼らがあんなにも燃え上がるのは、最初で最後かもしれない。だからというわけではないが、これだけは断っておきたい。安積という字は「あづみ」ではなく「あさか」と読む。よく間違われるので気を付けて頂きたい。