霊的盲目の二通りの人たち
読んでいてくださる人がいるなど、想像するだけで感動します。うれしいです。感謝します。 霊的盲目の人にふたつのタイプがあると思います。私の友人の牧師は、初めちゃんと見えていました。一緒に伝道しておりました。信者が増えて数百人になって群を導くのに、光の賜物である霊の目によってことを判断するのではなく、組織を維持するために、団体の方式を作って政治的手腕を使うようになりました。たとえば、指導者は敬わなければならないから(そうなんですが自然に湧き出てくる尊敬でして、尊敬されなければならないから敬うのではない)、それまで「さん」付け呼ばわりしていたのを・・牧師と呼びましょうとのお触れを出しました、とそんな具合です。 韓国の教会などでは、牧師先生と呼ぶところがあるそうですが、上からのお達しで、水戸黄門のように、「これが見えぬか」的でなければ、なんら間違いではないと思います。 神様の教えも「守らねばならない。指導者の言うことは神の声だ。」と言い出したのです。そこからその友人の牧師は、霊的盲目になりました。 盲人が盲人を手引きしているのです。その群の重鎮は、みなイエスマン(Yes,man)です。イエス・につくマン(man of Jesus)であるはずなのに。 もうひとつの霊的盲目は、初めから盲目の人です。ボーンアゲイン(新生)していないで聖書のことばを文字通り解釈して、人々に教えて、宗教(形だけの意味)として取り扱っている人たちです。 「文字は人を殺し、霊が人を生かす」ことがまったくわからない人たちです。 こんな二通りにの人たちの下で毎日曜日、話を聞いている人たちが哀れです。何とかならないのでしょうか? ちょっとは、理解していただけたでしょうか。もしそうなら、本望です。うれしいです。写真:私のニュージーランドでの足跡。北島のBay Island Beach です。ひとり寂しい足跡ではありませんか。