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2013.02.22
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カテゴリ:本・読書
歴史の本をめくっていると、昔々から船に「日の丸」を掲げた絵が多くあります。


平氏は「赤字に金丸」で源氏は「白地に赤丸」を使っていて、室町時代の勘合貿易や、秀吉や家康の朱印船にも日の丸が掲げてあります。


1615年に伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節が、ローマに行った時も日の丸をつけています。


18世紀から19世紀にかけて、ロシアが南下してきた時の、蝦夷の防衛のために派遣した御用船も日の丸を使っています。


よく知られているところでは、明治維新の時、幕府側が「日の丸」で、天皇を担いだ薩長の官軍は「錦の御旗」でしたよね。


会津藩の白虎隊や、奥羽越列藩同盟の一部なども、共通の旗として日の丸を掲げています。


こういう歴史を見ていくと天皇とはほとんど関係がなく、「日の丸、君が代は軍国主義や侵略の象徴で・・・・・」という自虐的で憎む気持ちというのが、日本人である私にはわかりません。


国旗及び国歌に関する法律ができ、国旗は「日章旗」とする、国歌は「君が代」とすると決まったのは、やっと1999年(平成11年)でした。


サッカーの試合で国歌を聞く機会が増え、若者たちが自然に「君が代」を歌い、「日の丸」で応援する姿が当たり前になってきたことは、よかったと思いますし、日本人としての誇りをもってほしいと思います。



               四つ葉  四つ葉  四つ葉



「君が代」について、面白い文章を見つけました。


司馬遼太郎の『歴史の中の日本』という随筆集の中に、昭和44年1月6日の毎日新聞に掲載された、「歴史の不思議さ ある元旦儀式の歌」という題で載っています。



徳川将軍家の大奥で、元旦に「おさざれ石」という儀式があったそうです。


御台所(みだいどころ)、つまり将軍の奥さんである正室が、4時に起床して身支度を整え廊下に出ると、そこにもうせんが敷かれていて、タライがすえられている。


タライの中に石が三つ並べられていて、御台所がタライの前に座ると、向こう側に奥女中がいて一礼し、「君が代は千代に八千代にさざれ石の」と、となえる。


御台所はそれをうけて、「いはほとなりて苔のむすまで」と、下の句をとなえる。


その後、奥女中が御台所の手に水をそそぐ。そういう儀式後、将軍家に年賀を申しのべるそうです。


この元旦儀式は、将軍家だけでなく、国持大名級の奥にもあったという。
そのものは徳川家の創始ではなく、遠く室町幕府の典礼からひきついでいるのではないかと、と。



明治2年(1896年)、イギリスから貴賓が来たときのこと。


それをもてなす場所はお浜御殿(浜離宮)ということに決まり、数人の英語のできる者が接待役になった。


貴賓が来た場合、奏楽が必要であった。


こういう場合の奏楽のことは、軍楽隊のやとい教師J・W・フェントン(イギリス人)が面倒をみていたが、彼は接待役の詰所へゆき、「日本の国歌はなんだ」と聞いた。


薩摩藩原田宗助も接待役のひとりで、彼はあわてて上司に聞くべく軍務官役所へかけつけ、おりから会議中であった藩の川村純義を呼び出し、そのわけを話すと、川村は急に怒りだし、


歌ぐらいのことで、いちいちオイに相談すっことがあるか、万事まかすということで、オハンたちを接待役にしたのではないか」と、怒鳴りつけて会議の席に戻ってしまった。


接待役の原田宗助は青くなってお浜御殿へ駆け戻って、同役の乙骨太郎乙(おっこちたろうおつ)に相談した。


乙骨は旧幕臣で、徳川家が静岡に移されてそれに従い、沼津兵学校で英語を教えていたが、その英語の技能を買われて、接待役を命ぜられていた。


乙骨は幕臣だったので大奥のしきたりを多少知っており、ふと「おさざれ石」の儀式を思い出した。こういうのはどうか、と言い歌詞を口ずさんでみた。


薩摩の原田は大いに驚き、「その歌ならオイの国の琵琶歌の中にもある」と、手を打って賛成し、なにぶん火急のときであるだけに、フェントンを呼び、原田みずからそれを琵琶歌のふしで歌ってみせた。


フェントンはこの奇態なふしまわしに驚いたらしいが、とにかく多少の手直しをして楽譜にとり、当日間にあわせた。


国歌「君が代」が誕生するについてのはなしは諸説あり、君が代うんぬんというのは、類似の歌が『古今集』にもあるが、フェントンから言われた軍学伝習生が、当時の砲兵隊長大山巌に告げ、薩摩琵琶歌の中からこの歌詞を選び、フェントンに示したものといい、これが通説になっている。


のちに原田が語ったところによると、「おれの歌ったふしとは、だいぶ違っている」と。


初期の「君が代」は、どうも間延びして威厳がなかったため、政府ではのちに海軍やといのドイツ人エッケルトに相談したり、雅楽の音律を入れたりして改訂した。


それが明治13年である。


国歌が実務上必要であったのは、遠洋航海として他国を訪問する機会の多い海軍であった。
祝祭日に使うようになったのは、明治26年からである。


               四つ葉  四つ葉  四つ葉


こういうのを読むと、「君が代」は天皇とはあまり関係ないことがわかってきます。


乙骨が上司に怒られたことから、急きょ知ってる歌を口ずさんだ歌が国歌になっているとは、思いもしませんでした。


徳川家の元旦の儀式や、乙骨の発想であったことが消されてしまったのは、やはり明治を仕切っていた薩長側の意図的な考えがあってのことでしょうかねぇ。


乙骨太郎乙(おっこちたろうおつ)という名も凄いです。(笑)


外国人が作曲したということと、古今集に似たようなものがある、ということしか私は知らなかったのですが、皆さんこの通説をご存じだったでしょうか?





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最終更新日  2013.02.22 13:57:23
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