よくわかる創価学会
日中国交回復までの流れ 出典:創価学会を理解するためのサイト創価学会を理解するためのサイトhttp://www.soka-news.jp/nichukankei.html中国と創価学会公明党の関係と目的 池田創価学会が最大級に誇る実績「日中国交正常化の架け橋は先生が行った」。 このことを調べていくと気付くことだが、周恩来総理、日本政府の外交文書、様々な研究者の文書を見るに、「“池田提言”や創価学会の影響が国交正常化の役割りを果たした」とはされていない。それどころか、創価のその字も出てこない。 しかし、正常化後、中国の要人、著名人らが、創価学会に対し正常化への敬意を述べている。 こういった不思議なことが、近年益々盛んに広報、宣伝されているのだ。 そこで、1. 池田提言が本当に正常化に決定打を打ったのか?を検証し、さらに、未だ、2. 中国本土で布教をしていない創価学会の目的は一体何なのか?について掘り下げてみたい。 台湾との国交を結んでいた日本は、次第に中国との関係を重視し国交回復にいたるのだが、この流れは中国政府の戦略によるものであることを知らなければならない。 下記年表を見れば、日中の国交は創価学会だけの影響ではないことが歴然としている。1952年 第1次日中民間貿易協定【データ】1953年9月 周恩来中国首相の大山郁夫教授に対する談話【データ】 周総理 「われわれは,世界各国との正常な関係,とくに日本との正常な関係の回復を主張しています。」1953年10月 第2次日中民間貿易協定【データ】1955年5月 第3次日中民間貿易協定【データ】1955年8月日中正常化のための北京会談提唱の沈平総領事書簡【データ】 「中日両国関係の正常化を促し,あわせて国際情勢を引続きやわらげる上に寄与するため,中国政府は,中日両国政府が両国の貿易についての問題,双方の居留民の問題,両国人民が相互に往来する問題,およびその他両国人民の利益に関係のある重大な問題について話合いを行うことが必要であると考えます。」1957年4月社会党訪中団と中国人民外交学会の共同コミュニケ【データ】 日本社会党中国訪問親善使節団は日本と中華人民共和国との親善友好を増進し、両国間の国交正常化を促進する目的をもつて中華人民共和国を訪問。1957年7月周恩来中国首相の日中関係正常化に関する談話【データ】 周恩来 「戦後,中国人民は,日本国民と友好関係を結びたいと願つている。」1958年 第4次日中民間貿易協定【データ】1959年日中国交正常化問題に関する石橋湛山前首相の周恩来中国首相あて書簡【データ】 石橋 「中華人民共和国と日本との両国(以下両国と称す)はあたかも一国の如く一致団結し,東洋の平和を護り,併せて世界全体の平和を促進するよう一切の政策を指導すること。」1959年日中友好協会訪中代表団と中国人民対外文化協会との共同声明【データ】 「中国人民対外文化協会(以下中国側と略称)は、近年来、日本中国友好協会によって、日本人民の間に広く展開された日中国交回復運動と日中友好運動に感謝するとともに、日本の広範な人民の間からおこされたこのような運動こそ、日中両国の真の友好の基礎であると表明した。」1962年1月社会党訪中団と中国人民外交学会の共同コミュニケ【データ】 「日本社会党代表団は中国敵視政策に反対し中国は一つであるとの基本線に立って日中友好と日中の正常関係回復のためたたかうことを表明した。これに対し中国側は同意と謝意を表した。」1962年9月松村謙三自民党顧問と周恩来総理との会談に関する共同メモ【データ】 双方は、漸進的かつ積み重ねの方式をとり、政治関係と経済関係を含む両国の関係の正常化をはかるべきであると一致して認めた。1962年10月日中友好協会訪中代表団と中国人民対外文化協会との共同声明【データ】 「日中両国の正常関係を1日も早く回復させるよう日本政府につよく要求する決意を表明した.中国側はまったくこれに同意し,これを支持することを表明した.」1962年 中国の雑誌『世界知識』に創価学会が紹介される。 周恩来が創価学会の調査を始めたとされる。1963年黄世明氏による創価学会の調査レポートが発行される。1964年10月日中友好協会中華人民共和国建国15周年慶祝代表団と中日友好協会との共同声明【データ】 「日中両国国交の速やかな回復を促進し、経済,貿易,文化の交流を拡大し、アジアと世界の平和を守るためにともに努力すべきであることを一致してみとめた」1964年10月周恩来中国首相と成田知巳社会党訪中使節団長との会談録【データ】 成田 「あらゆる国の核実験にも反対する」という社会党の態度は、結果的に中国の核実験にも反対するという面が出るわけですが、しかし、私たちの方針は、中国の平和政策と完全に一致している、との立場をとっております。1968年9月 池田大作会長 学生部総会で「日中国交正常化提言」を行う。 劉徳有が中国当局へ打電。1970年日中国交回復促進議員連盟連盟総会宣言【データ】 「われわれ衆参両院の有志議員は、党派やイデオロギーの別を超えた全国民的課題として、日中間の法的な戦争状態に終止符をうち、平和共存、内政不干渉の原則の下に国交を回復するため、力を合わせて進むことの合意に達した。」1971年7月5日田中角栄 自民党総裁選制す 「正常化の機が熟していると思う」(田中)1971年7月7日田中内閣誕生 田中は日中国交正常化を目指すことを述べる1971年7月15日ニクソン大統領 訪中を電撃発表1971年7月第一次公明党訪中◎第1回 竹入委員長、周恩来総理会談 7/27【データ】 周第一次公明党訪中◎恩恩来「日中間も国交回復し、友好条約を締結してアジアの平和のみならず 世界の平和に貢献しましよう。」その時期を9月と両者同意。◎第2回 竹入委員長、周恩来総理会談 7/28【データ】 周恩来 日中間、中米間の問題に言及。◎第3回 竹入委員長、周恩来総理会談 7/29【データ】 周恩来 「私たちの考えでは、田中首相、大平外相が訪中する場合は、共同声明か、共同宣言を発表した方がよいと思います。」国交回復に田中首相に期待する旨述べる。公明党五原則に中国側が合意1971年10月中国 国連加盟復帰1972年5月公明党第二次党訪中、周総理と会見。1972年7月公明党第三次党訪中周総理 国交正常化への中国側草案提示。日本政府へ持ち帰らせる。1972年9月田中首相、大平外相が訪中。「日中共同声明」に調印。日中国交正常化が実現1974年池田会長 周恩来総理と北京の305病院で会見。(約1年後、周恩来は死亡)1975年創価大学が日本で初めて中国の留学生の受け入れ対日戦略に乗せられた創価公明 周恩来は1950年代より、民間外交、政治次元において国交正常化実現のため周到な手を打ってきた。それは、日本の総理、与野党の議員、財界、要人、記者、スポーツ界、演劇などに渡る。 実のところ、正常化は中国政府の主導で展開してきたということである。 そうして、日本における機が熟した中で、池田提言がなされたのである。その意味では、池田提言が歴史を開いたのではなく、それを周恩来は利用したということになろう。 なぜなら日本に三原則① 中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府 ②台湾は中国の一部 ③台湾との断交を突きつけてきたのであるから、学会が多用する「友好」「友情」などというような生易しいことでは結ばれない。ましてや、民間人の提言を拠り所に条約を結ぶはずがない。