阿智村の記念館で
阿智村にある満蒙開拓平和記念館に行ってきた。 阿智村はちょうど紅葉の盛りで、園原インターからの周辺の山々の美しさに酔いしれた。 この美しいふるさとを捨てて、異国の地に移住した人々がいた…。 「満蒙開拓」は、旧満州(中国東北部)へ1936年から1956年にかけて20万戸、500万人を移住させようとした国策。「20町歩の地主になれる」「満州は日本の生命命」「関東軍が安全を守る」「開拓団に参加すれば、1戸に1000円を交付する(当時農村は疲弊し多額の借金-多い家で1000円を抱えていた。)」などと甘い言葉をたくさん投げかけ、さらに文書的証拠はないものの「開拓団からは徴兵しない」という暗黙の了解もあったそうだ。 実際は27万人(33万人説も)の移住で終わったが、そのうち長野県からは全国断トツの32,992人(37,859人説も)(うち少年義勇軍は6,216人-6,595人説も)を送り出した。(2位は17,177人の山形県、3位は12,680人の熊本県)帰国できた人の率は51.4%。 少年義勇軍へ誘ったのは、学校の教師。多くの教え子を満州に送り、大きな犠牲を出した。大正時代、自由教育をうたっておおらかな教育を実践した教師たちが、昭和8年に治安維持法の対象となって「教員赤化事件(2・4事件 )」で多くの逮捕者を出した。その事件があったから、国策をあえて支持した、支持せざるを得なかったという。 平和記念館の最後のスペースは「平和な未来へ 今、私たちができること」。 そこに書かれていた文章が、この記念館の姿勢を表していて、メモする手に力が入った。未来に向かってあの時代に問いかけてみます。なぜ、「満州」へ行ったのですか。今を生きるあなたに問いかけてみます。あの時代に生きていたら、どうしますか。日本と中国双方の人々に多くの犠牲を出した「満蒙開拓」とは何だったのでしょうか。長く人々の心の奥に閉ざされていた記憶に寄り添い、向き合いたいと真実に目を向ける時がきました。この歴史から何を学ぶのか、私たちは問われています。「負の遺産」を「正の遺産」へと置き換えていくこと。その英知が私たちに問われています。歴史に学び、今を見つめ、未来をつくる。同じ過ちをくりかえさないために、平和な社会を築くために。機会を作って、ぜひ見学していただきたいと思う。今、この時だからこそ。日本が大きくおかしな方向に舵を切り始めた今だからこそ。