|
カテゴリ:カテゴリ未分類
私は一切の外国人差別を許さないことをポリシーとしている。
私は学校なり(英語のネイティブスピーカー)、大学なり(同)、新聞記事なり(中国などでの普通の人々)、そして街中なり(観光客など)で、様々な外国人と接してきた。仕事でもそうだ。中国・吉林省からやってきたという朝鮮系のおっさんと一緒に大黒ふ頭(横浜)で仲良く仕事をしたこともある。それから私は確信した。やはり、一番重要な要素は「その人の人柄」なのだ、と。昔起きた事実?そしてそれについての歴史認識?そんなの多くの人達にとっては関係ないじゃん!相手も困るだけだし、ただでさえ深い溝がどんどん深まるばかりだ。韓国ともただでさえ「近くて遠い国」だと言われてるけれども、これ以上心理的に遠い国であって欲しくはない!日韓関係がこれ以上悪化すると、世界平和のためにも良くない。 私だって2年前までアメリカが嫌いな人間だった(2011年4月16日の日記)。「アメリカ人全員が全員、ブッシュ前大統領と同じ思想の持ち主だ」というところまで考え方が偏っていた時期があった。10年前の北朝鮮の人々に対しても同様だった。日本人拉致問題、核開発、独裁政権といった政治的な要素にとらわれたことにより、今から思えば大きな勘違いを起こしてしまった。10年前の私は「アホ朝鮮人!」と呼んでいたことがある。非常に恥ずかしい。絶対に批判されるべきは朝鮮労働党なのだ。本当に大切なのは、末端の一人ひとりなのに(多くの人々は、朝鮮労働党の現状を批判したくても批判できない。外国にも旅行に行けないし、それ以前に生活が苦しい)。 それと日本でも外国人(特に韓国・朝鮮系)に対して差別的な発言をする人々に聞きたい。 日本人としての「優越性」だとか「日本という国家が世界から高く評価されている」とか「自分たちは誇り高き民族だ」ということでしか、自分の個人としてのアイデンティティーを主張できないのだろうか? 個人としての自分に自信が持てないから、自己のアイデンティティーの背景を国家に求める。そしてよってたかって外国人を排斥する・・・。そのような思想が広まっているとしたら非常に残念だ。 どこだったかは失念したが、国粋主義に走っていると思われるニートを揶揄したアスキーアートがあった。まるでのび太とその母親を表現しているようなものだった。 男「よし、今すぐ『真実』を伝えよう!」 母親「『真実』はいいから、早く働きなさい!」 批判を的確に表現しているアスキーアートだと思った。要するに、こう言いたかったのかもしれない。 日本の将来を心配する暇があるなら自分の将来を心配しろ、と。 自分は現実社会でもネット社会でも非力で、影響力は全くない。政治や経済など、世の中の社会構造に関して妄想を巡らせてばかりいる。おまけに自分は大学院を卒業したのに就職できず、大した収入もない。母からは「社会に出てもいないくせに」と言われたことがある。フジテレビがコリアンエンターテイメントをあまりにも推し過ぎているとして、それに対する抗議デモ参加者の大半がニートやフリーターといった低所得者だったという仮説を考えると(小林よしのり氏が指摘)、非常に恐ろしいことだと思った。暮らしがよくならない、就職できないなど、若者の不満のはけ口が外国人排斥という形で表れているというのは、非常に憂慮すべきことだ。 私はそんなゲスな奴らと一緒にはならない。そう考えると、昨年12月の総選挙の結果、自民党が政権を奪還した後に私の政治に対する意欲や注目度は急に下がった。政治の世界から距離を置こうと思った。これを実践するために、私は政治の世界に対する発言を昨年までより少なくしているはずだ。 インターネットの世界はとても便利なもので、面白いものやツールがたくさんある。しかし!私たちにとって好都合になるか、不都合になるかを問わず、出所が不確かな情報というのがインターネットには非常に多い。やれ「○○は創価学会員だ」とか「○○はこんなことを主張してて、日本を貶めようとしている」とかの類だ。外国人差別ネタも非常に多くて、その場合にはとても読むに堪えない。一切聞き流すことにしている。 ネットでの評判とリアルでの評判は一致しない、とニコニコ動画でのブロマガで岩崎夏海さん(「もしドラ」作者)が語った。 「ネットの評価は、リアルの評価とはほとんど結びつかなかった」。「ネットでの人気が本の売上げを押し上げることもない代わりに、悪評が不人気にさせることもなかったのだ。ネットの評判は、リアルの世界とはほとんど無関係の場所で行われていたのである。」 そのことから、私はネット中毒になることの恐ろしさを初めて感じた。出所が不確かな情報が広まりやすいネットにいて、極端で過激な意見に染まってしまうのではないか、と。 私は実際に新大久保に行ったことが何度かあるのだが、多くの韓国・朝鮮系の人々は訪れた客に対して親切に接している(昨年11月9日の日記)。少なくとも初対面でも感じは良い。横浜中華街でもそうだし、神戸の南京町でもそうだ。大勢の人々でにぎわっている。 全く関係無いかもしれないが、「中学受験の神様」という評判を持つ在日コリアンの学習塾講師がいる。コミュニケーション重視のユニークな授業を行うキム・クァンジ先生も実力者の一人だ。私は自分が日本人であることを誇りに思っている。しかし同時にキム・クァンジ先生のことを人として尊敬に値すると考えている。そのことから、人はやはり国籍や民族ではなく、人柄で選ばれるんだなと思ったのだった。 この世界をつなぐもの、そのベースとなるものは人である。決して国家やそれを統治する政府・政党や思想ではないと、改めて考えた日々だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 26, 2013 12:46:23 AM
コメント(0) | コメントを書く |