1994年5月1日にアイルトン・セナがサンマリノGPで事故死してから20年が経過しました。
1994年、セナは前年まで6年間在籍したマクラーレンから、当時最強だったウィリアムズに移籍。F1随一のハイテクマシンと音速の貴公子の組み合わせに多くの人々が期待したかもしれません。最大のライバルだったアラン・プロストが現役引退し、新たな最強ライバルはミハエル・シューマッハー。その年の開幕戦・ブラジルGP、2戦目・パシフィックGP、そして3戦目・サンマリノGPでのフロントローはいずれも、セナ(PP)とシューマッハー(2位スタート)の組み合わせでした。F1界での新旧交代を期待させるシーンでした。
しかし、2人が真剣勝負を繰り広げる回数は少なすぎました。3戦目・サンマリノGPは不吉なことが非常に多かったです。フリー走行ではルーベンス・バリチェロが大クラッシュ、予選落ちを余儀なくされました。予選ではローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故がありました。
重苦しい雰囲気で迎えた5月1日の決勝レース。スタート直後にペドロ・ラミーとJJレートが接触し、マシンが大破しました。この時点でレース続行は困難かと思われましたが、レースは続けられました。そして、セナは単独で事故に巻き込まれました。その際、サスペンションアームが頭を貫通したのが致命傷となりました。レースは中断され、セナは病院に運ばれましたが、治療の甲斐無く亡くなりました。
アイルトンの甥っ子・ブルーノは当時11歳。この事故と、さらに翌年('95年)にはブルーノの父がバイク事故で他界。ブルーノは全てのモータースポーツ活動を禁止されたそうです。彼は2010年にF1デビューしましたが、未だに「セナ」という名前で私も評価してしまっています(ブルーノ本人は嫌っているようですが)。
私がセナのことを初めて知ったのは1999年。当時中学生だった私は英語の教科書に彼の写真が掲載されているのを見たのです。F1ドライバーとしてよりも、ブラジル出身の有名人として彼が起用されていたのです。しかし私がF1を本格的に見始めたのは2001年のこと。F1について詳しく知る前に、セナはこの世から去っていたのです。それはレースファンとして非常に残念でした。
しかし、彼を知る機会がなかったら、こうして私も何らかの形でF1を見ることもなかったと思います。その意味で、アイルトン・セナは偉大なF1ドライバーだったと改めて考えることができました。ありがとうございました。
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Last updated
May 1, 2014 11:17:36 PM
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