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カテゴリ:私の心の故郷・神戸
あの阪神大震災から25年。もう四半世紀が経ちました。
震災当日の1995年1月17日(火曜日)、私は当時小学2年生でした。それ以前にも、母の実家がある兵庫区へ両親と一緒に遊びに行き、祖父母と一緒に遊んだことを思い出します。 母から「神戸で大きな地震が起きた」と聞かされた時、私は少なからずショックでした。阪神高速道路はなぎ倒され、神戸の町の至る所で火災が発生していました。以前、訪れたことのある下山手カトリック教会(中央区)が崩壊した写真を見て、ショックを覚えたのを覚えています。 幸い祖父母は無事でしたが、震災からしばらくは大阪市の叔母の家で生活していました。 この震災では6434人の人達が亡くなりました(震災関連死含む)。そのうち、神戸市だけで4545人の人々が亡くなりました。 ~死者の一覧~ 東灘区 1470人 灘区 934人 中央区 243人 兵庫区 556人 長田区 921人 須磨区 399人 北区 13人 西区 9人 震災があった年の12月、私たち家族は再び神戸の祖父母を訪ねました。その際の写真が残っていますが、祖父母が元気で迎えてくれたのが印象的でした。 この震災では、上記の下山手カトリック教会をはじめ、栄光教会、神戸そごう、神戸国際会館、神戸阪急ビル、阪神電鉄・石屋川車庫など建物が次々と崩壊、あるいは半壊だとか中層階が押しつぶされたりと大きな被害を受けました。 あれから25年。神戸の町は復興を終え、見た目では震災の影響を感じさせない場所が多いです。しかし、25年前とはもう違います。阪神大震災を知らない世代が多くなってきました。私としても震災前の神戸の様子を伝えられたらと思っています。 ~阪神大震災25年~父を失った。でも出会った人がいる 尼崎市の小島汀さん、竹灯籠に「結婚したで」(17日、毎日新聞) 兵庫県尼崎市の会社員、小島汀(おじまみぎわ)さん(28)は、神戸市中央区の東遊園地で開かれた追悼行事で竹灯籠(とうろう)に揺らめく炎を見つめ、亡き父に報告した。「私、結婚したで」。出会いに支えられた25年。人生のパートナーを得て、「今日という日を迎えられることのありがたみ」を改めてかみしめる。 3歳だったあの日の記憶はほとんどない。大きな揺れで、同県芦屋市の自宅アパートが倒壊。父謙さん(当時36歳)が亡くなり、母恵子さん(59)は重傷を負った。 小学生になった小島さんの居場所は、近所にできた「神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)。あしなが育英会が震災遺児の心のケアのために造った施設で、思い切り泣き、笑った。同じ境遇の仲間や職員には「素の自分」でぶつかっていけた。 経験を生かそうと2007年春、兵庫県立舞子高校環境防災科(神戸市垂水区)に進学し、防災教育を学んだ。関西大在学中の11年には東日本大震災が発生。宮城県石巻市で廃校になった小学校の再生プロジェクトに関わった。卒業後、ウエディングプランナーとして働くようになっても、仲間たちとボランティアを続けてきた。 19年11月、友人の紹介で知り合った同い年の会社員の男性と結婚。式の「新婦友人席」には、あしなが育英会の職員ら「震災がなければ出会わなかった人」がずらりと並んだ。バージンロードも育英会職員の八木俊介(としゆき)さん(50)と歩いた。ふらりと家に遊びに行くといつでも受け入れ、弱音を吐き出せる「父のような兄のような」存在。張り切ってモーニングを借り、自分以上に緊張している八木さんの姿がうれしかった。「この人たちとの出会いは、お父さんのくれたプレゼントです」――。亡き父あてに、手紙を朗読した。 節目の年を迎え、ずっと心を寄せてきた東北へ足を運ぶつもりだ。目に見えるものがきれいになることだけが復興ではない、と思う。「つながった人の『あなたのこと、忘れてないよ』という思いに今まで支えられた。だから、私も」。息長く歩んでいく。【反橋希美】 (引用終わり) ・・・「目に見えるものがきれいになることだけが復興ではない、と思う。」 これが私にとって最も考えさせられるコメントでした。阪神大震災や東日本大震災に限らず、悲しい事件・事故を「無かったこと」にして心を安定させる・・・。これは私の悪い癖になってしまっています。「心の復興から目を背けて良いわけないよな・・・」と考えさせられてしまいます。 最後に一言。 がんばろう神戸! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jan 31, 2021 12:21:04 AM
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