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2021/11/14(日)08:57

トヨタ博物館 日本製ボディを載せた「オースチン セブン(1934年)」を語る

テーマパーク 遊び場 旅(425)

学芸トーク “日本製ボディを載せた「オースチン セブン(1934年)」を語る”を聴きにいく。  もう一つの目的は“小林彰太郎フォトアーカイブ展”「昭和の日本自動車 見聞録」の観覧。  動車雑誌『CAR GRAPHIC』の生みの親、(故)小林彰太郎氏は、オースチン セブンのオーナーでもあった。       ■学芸トーク “日本製ボディを載せた「オースチン セブン(1934年)」を語る”  2016年2月14日、14時から15時30分。  トヨタ博物館、新館1階大ホール(無料ゾーン)で開催。  トヨタ博物館に寄贈されたオースチン セブンの、日本でボディを架装した理由、手法とともに、ダットサンと似ている点、違いなどを聴く。  状態は非常によくないが、製法が不明となることから、レストアに着手するかは未定とのこと。  学芸員、寄贈者、館長、熱心なファンのトークで、オースチン セブンと日本で販売された時代について多くのことを知ることができた。  2014年11月9日にトヨタ博物館駐車場で開催された、「オースチンセブンデイ」の杉本純一実行委員長も出席していた。       ■オースチン  オースチン(The Austin Motor Company )はイギリスの自動車メーカー。  1905年、ウーズレー・ツール&モーター・カー・カンパニーの工場長を務めた、ハーバート・オースチン(1866–1941)が設立。  第一次世界大戦中は英国政府の調達要請を受け、大砲から飛行機まであらゆるものを製造。  2500人だった従業員は2万2000人へと増え、オースチンは大きな企業となった。  第一次世界大戦終了後、大きな規模を満たすだけの企業活動がなく、1921年に管財人の手に委ねられた。        その後、1922年、1661ccのオースチン・12(トゥエルブ)、1922年、オースチン・ 7(セブン)が小型車市場に投入され、オースチンは復活した  発売前、オースチンの経営陣が成功を危ぶんだ小さなオースチン 7は、オースチン復活の救世主になった。  現在、ブランドとしてのオースチンは、中華人民共和国の南京汽車がその商標権を保持している。       ■オースチン 7  低価格、小、大衆向け乗用車オースチン 7(Austin 7)はイギリスで1922年から1939年にかけて生産された。  累計生産台数は29万台。  「7」は当時のイギリスにおける課税馬力数値「7.h.p」相当であることから命名され、「チャミィ(Chummy)=仲良し」という愛称で親しまれた。  機構面では、オールスチールボディ、ガーリング製ブレーキ、シンクロメッシュ付きトランスミッションに切り替えられていった。  エンジンのサイドバルブは変化なし。        ドイツではBMWの最初の自動車デキシー(Dixi)、米国ではバンタム(Bantam)、フランスではローザンギャール(Rosengart)がライセンス生産を行った。  日本のダット自動車が製作したダットサン11型は、ライセンスを受けていなかったが、「7」とエンジン構成、車両サイズが非常に似た車両となっている。  フレーム、サスペンションは両者で大きく異なる。        日本の販売面でのライバルはそのダットサン。  7は医者、弁護士をメインターゲットとして販売された。       ■“小林彰太郎フォトアーカイブ展”「昭和の日本自動車 見聞録」  期間 2016年1月5日~6月12日  場所 新館2階  棺桶ノーズと評された巨大なFWD、コード810がサイトに掲載されていたので一段と関心高く臨んだ。  日本にきたコードについて詳細な記録、写真をむることができ感動ひとしお。  810だけでなく、生産台数の少ないスーパーチャージャー搭載の812も存在したことに驚く。            

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