テーマ:人についての記録(7)
カテゴリ:パーソナル
亜大陸インドにて我々日本人が初め てお目にかかる不可蝕民、物乞い、 乞食、聖者、ヒンドゥー教徒、そして 様々なる市井の人々。 彼らが織り成すインド世界は実に複 雑多様であり、直に視覚に飛び込ん でくるものだけでも我々日本人はそ れを容易には処理できない。インド 世界の日常に在る現実を咀嚼する ための判断材料を、残念なことに我 々は持ち合わせてはいないのだ。 我々は戦後復興を進めて行く過程 においてGHQが先導した画一的で、 偏狭なる社会システムの中に安住 し、挙句、米国の属州の如きものと なり果て、人工的で合理的なものば かりを尊ぶようになった。米国人の ように過度に死や老いを恐れ、死や 老いを忌むべきものと見做し、日常 のすべてから死を遠ざた。 米国人の如き心性を得た我々はハ リウッドが大量供給する破壊とセッ クスとホラーに悦び、クリスマスイブ を無意味に祝い、マクドナルドに通 い詰め、米国文化の象徴とも言え うべきディズニーランドをも自前で こさえ、一方、自前の文化は無残な までに粉微塵に打ち壊して文化や 生活を米国化させるのと同時に、 米国が世界中で仕掛ける戦争を陰 に日向に支援し、それに加担する ことで思想や魂をも米国に同化させ て戦後を今日までしのいできた。 その果てが、この平成の世である。 平成の若者が例えばインドへ行く。 インドへ旅行に行って、そこで詐欺 をはたらく輩を目の当たりにしても、 日本人は詐欺師を見たことがない のでそいつを詐欺師とさえ容易に は見抜けない。私が出逢った日本 人旅行者の中には詐欺師を称して ”ちょっとおしゃべり好きな親切な インドの友人”とすら言い表した者 がいて、私は愕然となった。 『なぜ騙されていることが理解でき ないのだろう。なぜ親切ごかしやオ ベンチャラを言ってくる者を友人と 思い込めるのだろう。あなたの心 の内がまるでわからぬ』と。 確かにそれは喜劇のような一幕で あり、私からしてみれば悪夢と言う べき旅行者の現実であり、それは、 物事や人を見たり見通したり見抜 いたりする能力の明らかなる欠如 であることは間違いない。 更に言えば詐欺師を友だちとまで 言わずとも子供だましのような馬 鹿げた手口に簡単に引っ掛かる 旅行者は後を絶たず、またそれと は逆に旅の最初から最後までイ ンド人を警戒することばかりに終 始。それに病気にでもなったらそ りゃあ一大事と、上等なホテルの レストランだけで飯を済ませ、それ 以外で食べたのはファーストフー ド店のハンバーガーだけと言う者 さえ珍しくはないのである。 ま、確かにそれは極端な反応に近 いほうの方々かも知れない。だが、 壊れかけた犬小屋のごとき家屋に うずくまる最貧民や、四肢なき物乞 いや、道路に死体の如き様で横た わる幼児の姿を見つけて多くの日 本人旅行者は思考停止に陥る。 硬直気味の脳味噌がやっとのこと で働き出しても思い至るのは精々 が『可哀想…』である。 可哀想。 本当にそうだろうか。様々な姿や形 でインドに生きる無辜の人々は可哀 想な存在なのだろうか。 否。あれは必死に生きる姿である。 生きて行くひとつの形なのである。 断じて可哀想な人間なんかではない。 絶望しようと苦しかろうと痛かろうと なにがなんでも生きていくと言う決 然とした姿だ。それを可哀想などと は口が裂けても言えぬし、そのよう に表現するべきではない。 ただ、あなたや私とは異なると言う ことでしかないのだ。 【続く】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.22 13:01:58
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