カテゴリ:旅ネタ
しかし思うのだが、記憶できないって事は記憶するに及ばない程度の意味しかないのではないだろうか。つまり、記憶する必要のないものだから記憶しない(できない)のではなかろうと、そういうことである。本質的に本能的に潜在的に自分にとって必要のあるものなら大して努力も尽力も必要なしに簡単に記憶出来るのだが、そうでないものは記憶に留まらぬよう脳が記憶中枢に制動をかけてしまうと私は体験的に推察及び理解をしている。 ま、それがあってるか間違ってるかそんなことはどうでもいいのだが、旅を終えて不思議に感ずるのは、記憶に残る人と残らぬ人がいて、その差異が何に所以するのかさっぱりわからぬのである。 例えば写真の男性はパキスタンとの国境近くにあるイラン東部の町ザーダンで帽子屋を営んでいて、彼と私が同じ空間にいたのはほんの20分間かそこらのもんで、一緒に飯を食ったわけでもなければ腹を割り己の人生を語り合ったわけでもない。行きがかり的に私の買物につきあってくれ、私が別の店で欲しがった民族衣装の値引き交渉を手伝ってくれたから「記念に一枚どう?」みたいな流れでの撮影。ありがとう。お元気で。ってな実に簡潔で短いお付き合いにすぎなかったのであるが、何故だか彼は私の記憶から消えないのだ。 理由は全然わからない。思い当たるふしもない。でも彼は旅の記憶として勝手に深く刻まれ、このあとの私の人生が何十年か何年なのかわからぬが多分彼はずうっと記憶の中に留まり続けるだろう。七ヶ月間に及んだ旅の、その中のほんの20分間の付き合いであったのに。 前世がどうとか、運命がどうとかそういう説明は愚劣なので絶対にしないし、よくわからぬ事象を理解解釈説明しようとして不明瞭極まりない前世とか運命という屁理屈を持ち出すのは愚劣であるばかりでなく、ご都合主義的で、まるで後出しジャンケンであるから論外だ。 見えないものがあってもいい。 不思議なことをひとつ説明や解明したからってそれで人類のありようが変るわけでもないし、記憶術もまた然りである。脳が記憶することを回避拒絶しようとしているものを無理矢理覚えたところでそんなものは己の足を引っ張りこそすれども決して魂の安寧へと導いてくれるわけではない。周りを見渡せばそれはあきらかだろう。己の外から求められるものに必死に応じ、後付の理屈に振り回され、自分で自分の身体に鞭を打った挙句に待ってるものが何であるか皆うすうす解っている筈である。 内なる声に耳を傾けないと早晩我々は己に裏切られるぞ。写真を見るたび彼は私にそう耳打ちするのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.05.30 10:56:02
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