2008/06/10(火)10:06
鰯ヘッドのエンジン ~ルーツ・オブ・マルチ~
マルチ商法系の集会やらセミナーやら講習会に誘われたことがないという方はほとんどいないと思う。未成年者はともかく、成人、社会人の類を10年以上もやっていれば誰しも一度や二度はある筈である。で、マルチの集会やらセミナーへ行った方はご存知かと思うが、集会にもセミナーにも行ったことがないというレアケースに属する方の為に申し上げておくと、それらマルチ集会やマルチセミナーのテーマは何かと言うと、びっくりするなかれ、これがなんと『幸福』なんである。
幸福だよ幸福。
ダンナ、幸福ですぜ幸福。
汝、幸福を語るなかれの幸福ですよ、し、あ、わ、せ。
私もセミナー初体験時はめっぼう驚いた。金の亡者の分際で幸福を語るとは、こいつらマジかよ。頭、大丈夫かよ。と思ったのであるが、つまるところ『金がありゃ皆ハッピーじゃん。ね、みんなそうだろ。ハッピーになりたいよね。ね。ね。ね。』と言ってるわけで、至極わかりやすい論旨だったりする。
で、マルチ的セミナーでは更に三段論法的に取扱商品の素晴らしさについて言及する。斯くも素晴らしい商品を売った人は、買った人たちから感謝され、お金も儲かりハッピーになれる。買った人もすばらしい商品によって勿論幸せになれる。だから素晴らしい商品なのだと少々論旨不明瞭。
不明瞭などとツッコミをいれて欲しくなければ商品のすばらしさの秘密を開示しなくてはならないが、無論そこンところは根拠薄弱で、マルチ的セミナー担当者がさらりと触れるのは先端技術だったり特許取得技術だったり身体にいいものだけを使っていたりとなるわけだが、どのあたりが先端技術なのか、先端だ先端だと抽象論ばかりで何故そのデーターを出さないのか、身体にどう作用するから良いのか、身体に悪いものは使ってないという証明はできるのか、身体に良いものの出所はどこなのか、有機栽培の食材を謳うなら当該栽培農家を何故明記しないのか、などとツッコミどころ満載で、結局のところすばらしい商品とは言葉遊び以外のなにものでもなく、すばらしい商品のすばらしさが証明できないのは致命的であるのだが、セミナー受講者の中の幸せになりたくてしょうがない人たちにとっては論旨の不具合など取るに足らない瑣末事なのだ。
で、三段論法の締めは、こうである。
『幸せになるための方法はご理解できたことと存ずる。でも、しかし。実を申せば独りでは決して真の幸せにはなれぬのである。幸せになるためには人と人とのつながりこそが肝要なのである。それがネットワークである。これからはこの事業をマルチなどと呼んではならぬ。マルチビジネスなんぞでは断じてない。これはネットワークビジネスなのだ。どうだわかったか!?わかったら解った奴から順番に幸せにしてやる。だから俺について来いっ!」
感嘆に呻き、万感の拍手が巻き起こる。
誰もが幸せな明日の自分の姿を虚空に投影し、固くこぶしを握りしめる。またはガッツポーズの一つもしたくなる。よっしゃ!もらった!これからは俺の時代だ。不幸とも報われぬ努力ともさようならだ。金さえあれば俺はすべての業苦から解き放たれるのだ。やったぞ。俺は私はボクは幸せになれる。なれる権利があるのだから。要はやるか、やらぬか。それだけのことだ。俺は私はボクはやる。絶対やる。やってやるぅぅぅぅぅ!
これらの構造をちょっと置換してみよう。
セミナーを布教活動に。セミナー担当者を宗教家に。金を愛もしくは神に。素晴らしい商品を教義信条へと。
ほら、そうするとネットワークビジネスは●●●教に大変身である。あれれ。●●●教は昔っからこんなことを連綿とやり続けてきたのだろうか。そう。マルチの構造は目新しいものでもなんでもない。鰯ヘッドが古来より構築してきたものを現代的概念に置換したに過ぎぬのである。
人は他人が不幸せになろうとも我が幸せを求め続ける。それが鰯ヘッドのエンジンであり、マルチは壊れかけた旧式エンジンをオーバーホールしたに過ぎぬのである。で、本稿を締める前に一つ申し上げておくと●●●の伏字に特定の宗教は想定していないので誤解なきようお願いします。鰯ヘッドにサイズの差はあってもその駆動方式は所詮同一なのだ。