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職の精神史

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2008.06.08
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近年は「群集心理」に興味を持つ学生も出てきた。


学生の中には、広告宣伝の一手法や、あるいは心理学の一端として「好奇心」のような興味を持つ人もいるが、私はこの「群集心理」とは、実に恐ろしいものだと思っている。


わが闘争(下)


「わが闘争」(ヒトラー/角川文庫)


ナチズム、すなわち「右の社会主義」の組織論だ。


ヒトラーはこの中で、随所に宣伝の重要性を述べており、その発想、手法はレーニンときわめて似通っている。


この、20世紀最大の煽動者である二人が参考にしたのは、ギュスターヴ・ル・ボンの「群衆心理」(講談社学術文庫)である。これは、今年の近現代史勉強会で、冬あたりに読む。



――第六章 初期の闘争―演説の重要性――


人間は、内心に虚偽と劣悪さをもっているから、おそらく自分自身に対してすらなんといっても降服だとは認めないかもしれないが、しかし、かれらをさそって協力させたのは、ユダヤ人によって扇動された民衆世論に対する臆病と不安だけだった、ということの真実さには変りはない。他のいかなる理由づけもすべて、罪の意識のある小罪人のあわれむべき逃口上なのだ。(139)



→劣等感と、罪や失敗を逃れ、自分を大きく認めたい、認めてほしいという潜在意識こそ、ヒトラーが最も利用したものである。


ヒトラーは「人は気に入った情報しか信用しない」と言った。そして、この理念に従って、「あなたは悪くない!悪いのは○○だ!」と繰り返し、○○には、聴衆の敵としてふさわしいシンボルを当てはめていった。


内心に罪の意識があり、自信がない人間は、理由を与えられれば、自分から信念を捨て、「他人に決断されたがる」というのが彼の理論だ。



どんな演説のときにも、討論にさいにでてきそうな相手の異論の内容や形式を想定して、前もってはっきりとしておき、そしてこれをさらに自分の演説の中で、手まわしよく残るくまなくやっつけることが重要である。(141)


→ヒトラーはどんなに複雑な問題でも、「AかBか」というふうに、単純化して語り、敵味方の区別をはっきりつけて、大衆に決断を迫った。

大衆が疑いを抱きそうな問題については先んじて取り上げ、前もって単純化して論破することで、思想の方向性を知らず知らず強制していった。



■当時わたしは、このテーマについて二千人の会衆を前にして語った。そこでは三千六百の敵意ある視線にしばしばぶつかった。三時間後には、眼前に神聖な憤激とはてしない憤怒にみちた波うつ大衆がいた。あらためて千をもって数える群衆の心と頭脳から大きな虚偽をのぞかれ、そのかわりに真理が植えつけられたのである。(142)


→ナチスは良い政策を語ったのではなく、ただ、「誰が悪いか」、「誰に責任があるのか」をシンプルに、口汚く、繰り返して語っていった。つまり、人間の嫉妬心と憎悪の心こそ、利用すべき「最大公約数」だった。


政治的暴露の有用性はレーニンも繰り返し認めているところで、人々は、悪事を暴露した者が正義を知っていると考えやすい。


ヒトラー、レーニンは極右と極左の社会主義者だが、両者の手法は驚くほど似通っている。それは、「悪事を暴露して大衆の怒りを刺激する」→「悪事による災難や苦労による利得者を特定し、嫉妬心と憎悪の標的を作る」→「そして、『あなたは正しい』と言いながら、正義を知るのは我々だけだと一体感を植え付ける」というものだ。



■フィルムをも含めたあらゆる形式の像が、疑いもなくもっと大きな効果を持つのである。ここでは人間はもはや知性をはたらかす必要がない。眺めたり、せいぜいまったく短い文章を読んだりすることで満足している

それゆえ多くのものは、相当に長い文章を読むよりも、むしろ具象的な表現を受け入れる用意ができているのである。像というものは、人間に、かれが書かれたものについて、長いことかかってやっと読んだものから受け取る解明を、ずっと短時間に、一撃といってもいいぐらいに、与えてしまうのである。(145)


→ヒトラー、レーニンともに、映像の重要性を繰り返し指摘しているのは見逃せないところだ。ナチスも共産党も、よく映像を使う。人々は、手っ取り早く物事を分かりたがっており、実際に活字によって自分の思考を鍛えたりする人は少ないからだ。


大衆とは、思考や集中が面倒くさい、さっさと分かりたい、と思っている人のことでもある。組織された煽動者にとって、これほど操りやすい人々はいないだろう。




■演説かは聴衆の表情によって、かれらが第一に自分がいったことを理解したかどうか、第二にかれらが全体についてくることができるかどうか、そして第三にどの程度まで提議したものの正しさについて確信したか、ということを読み取ることができるのである。


第一に――かれは聴衆が自分のいったことを理解しないと見たならば、かれは最も劣等なものでさえも理解できるにちがいないぐらいに、その説明を単純に平易にするだろう。


第二に――かれは聴衆が自分についてくることができないと感じたならば、みんなの中で最も頭の弱いものすらとり残されない程度に、自分の思想を注意深く、徐々に組みたてる。


そして第三に――聴衆が自分の提議したものの正しさを納得していないように見えるかぎり、これをたびたび、つねに新しい例をくりかえし、また口に出さないまでも感じ取れる聴衆の異論は、自分からもち出して、ついには最後まで反対するグループさえも、かれらの態度や表情によって、自分の論証の前に降伏したと認められるまでは、反駁し、粉砕するのである。(146)


→「最も知力のない人間に合わせて語れ」、「取り残されていると感じるような孤独感を利用せよ」とは、有名な箇所だ。現代の広告宣伝でも多用されている方法ではないだろうか。


ヒトラー、レーニンともに、「理性」ではなく「感情」を重視している。社会主義に理論はなく、あるのは理論を装った嫉妬と憎悪の体系だ。



■そのさい、人間というものは、知性には根拠をもたず、たいてい無意識に、ただ感情によってのみ支えられた先入見にとらえられていることがまれでない、ということが問題である。こういう本能的な嫌悪、感情的な憎悪、先入的な拒否というような柵を克服することは、欠点のある、あるいは誤った学問的な意見を正しく直すことよりも、千倍も困難である。


誤った概念やよからぬ知識というものは、啓蒙することによって除去することができる。だが感情からする反抗は断じてそれができない。ただ神秘的な力に訴えることだけが、ここでは効果があるのである。そしてそういうことはつねに文筆家にはできず、ほとんどただ演説家だけがなしうるのである。(146~147)


→人間が、自分の意見の根拠さえよく分かっておらず、いつも漠然とした先入観によってしか判断していないことを、ヒトラーは見逃さなかった。だからこそ感情に呼びかけ、敵への恨みをかき立てさせたのだろう。


なぜなら、ここにも書かれている通り、人間は一旦感情的に嫌いになったものをもう一度好きだと認めることを、誤った学説を修正する以上に困難だと感じるからである。できないのではなく、したくないと思うからだ。


現代も、大衆は噂、批判、反発で団結しやすい。つまり、自分で考えず、嫉妬心が強く、過ちを認めきれない人間のみが団結しやすいということではないだろうか。


団体的主張しかなしえない人間の意見など、信用、評価すべきではないだろう。



■その集会(註※マルクシズムの集会の意)ではこの民衆の演説家は、たばこの煙でもうもうたるレストランのテーブルの上に立ちあがり、大衆の頭にたたきこみ、そうしてこの人的資源の驚くべき知識を獲得することを知り、そしてそれが世論の城郭の最も正しい攻撃武器を選ぶ地位にかれらをはじめて置いたのである。


さらに巨大な大衆でも、十万人の行列がそれだった。これは小さいあわれむべき人間に、自分は小さなウジ虫であるにもかかわらず、大きな竜の一部をなし、その紅蓮の吐息のもとに、憎らしいブルジョワ社会がいつか火炎に化し、そしてプロレタリア独裁が最後の勝利を祝うのだ、という誇らしい確信を燃え上がらせるのだ。(149)


「隷属への道」(ハイエク)の指摘を思い出させる部分だ。


平和、人権、平等など、崇高に聞こえる理想を標榜する団体には、なぜか人格劣等で、コンプレックスを抱えた人間が多い。構成員は、自分の劣等感や挫折感を補償し、団体の一員になることで、他人を批判することができるからだ。


煽動者は、この大衆の自己顕示欲、優越欲を満たしてやらねばならない。コンプレックスのはけ口として、崇高で単純な理想を用意しなければならない。ヒトラーとレーニンは、その「思想改造」の達人だった。




■朝は、日中ですらもそうだが、人間の意志力は、自分と異なった意図や異なった意見を強制しようとする試みに対しては、このうえないエネルギーで抵抗するように思える。これに対して晩には、それらはより強い意志の支配力に、もっと容易に屈服するのである。(151)


→朝に学ぶ者は頭が冴えており、劣等の感情に影響されることがない。肉体的、精神的に疲労した時は、大事な判断をしないことが大事である。



■文盲の民衆は、実際上カール・マルクスの理論的書物によって共産主義革命に熱狂したのではなく、ただすべてのものが一つの理念のために奉仕して民衆にもっともらしく説いた幾千の扇動者という輝ける天空によってである。民衆というものはつねにそうであったし、永遠にそういうものであろう。(152~153)


→社会主義的価値観を表明する人は偉そうなことを言うのに、驚くほど本を読んでいないことが多い。今でも、無知な人ほど「学校で習った」、「先生が言った」、「誰々がそう言っていた」程度の根拠で意見を持っているものである。


こうした人間の知的怠惰は、永遠に変わらないだろう。私もそう思う。



■また民衆集会というものは、まず第一に若い運動の支持者になりかけているが、さびしく感じていて、ただ一人でいることで不安に陥りやすい人に対して、大抵の人々に力強く勇気付けるように働く大きな同志の像を、はじめて見せるものであるから、それだけでも必要である。


同じ人間でも、中隊や大隊の中で、戦友のみんなに囲まれているほうが、自分一人に頼ってするよりも楽な気持ちで、突撃に参加できるであろう。群をなしておれば、人間というものは実際にこれに反する千の理由があろうとも、つねに何か安心感を持つものなのだ。(156)


→孤独感を取り除き、「みんなもそう思っている」、「みんなもそうする」、「みんなもそうだ」と呼びかけ、自分を「みんな」なる烏合の衆の一員だと自覚させれば、不安な人間は思想の自由を自ら放棄して煽動者の軍門に下る。




…以上がヒトラーの宣伝・煽動思想である。


この他にも、まだ腐るほど掲載されているから、興味がある方は自分で調べてみてはいかがだろうか。きっと、読み終えると、気が滅入ってくるだろう。





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Last updated  2008.06.08 10:20:44
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