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2021年10月16日
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カテゴリ:映画その他


#燃えよ剣 #土方歳三 #近藤勇 新選組副長・土方歳三の生涯を描き、過去に映画化、ドラマ化もされてきた司馬遼太郎の歴史小説を、「関ヶ原」の原田眞人監督&岡田准一主演の再タッグで新たに映画化。江戸時代末期。黒船の来航により、外国から日本を守るため幕府の権力を回復させようとする佐幕派と、天皇を中心にした新政権を目指す討幕派の対立が深まりつつあった。武州多摩の農家に生まれた土方歳三は「武士になりたい」という思いで、近藤勇、沖田総司ら同志とともに京都へ向かう。芹沢鴨を局長に、徳川幕府の後ろ盾で新選組を結成し、土方は「鬼の副長」と恐れられながら、討幕派の制圧のため京都の町で活躍を見せるが……。土方歳三役の岡田のほか、土方と生涯愛を貫くお雪役を柴咲コウ、近藤勇役を鈴木亮平、沖田総司役を山田涼介、芹沢鴨役を伊藤英明がそれぞれ演じる。
2021年製作/148分/G/日本
配給:東宝、アスミック・エース


NHK大河ドラマ『青天を衝け』(2021年)や、司馬遼太郎の歴史小説『燃えよ剣』、『新撰組血風録』や、大河ドラマ『新選組!』(脚本:三谷幸喜)でも、おなじみ。新選組局長・近藤勇の生家跡と天然理心流道場 撥雲館に行ってきました。
撮影日:2018年11月6日火曜日


NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 あらすじ
第20回 篤太夫、青天の霹靂(へきれき)
2021年6月27日放送
第14代将軍徳川家茂(磯村勇斗)が亡くなった。禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮徳川慶喜(草彅剛)の次期将軍就任が避けられぬと目される中、渋沢篤太夫(吉沢亮)は「今将軍になっても、国中の非難を一身に背負うだけ」と徳川慶喜に進言する。一方、薩摩の大久保一蔵(石丸幹二)は公家の岩倉具視(山内圭哉)と共謀し、王政復古を画策していた。徳川慶喜が徳川宗家を継いだことで幕臣となってしまった渋沢篤太夫は失意の日々を送っていたが、ある日、謀反人・大沢源次郎の捕縛を命じられる。警護のために同行するのは、新選組副長・土方歳三(町田啓太)だった。


徳川慶喜が徳川宗家を相続。一橋家の家臣から、嫌っていた江戸幕府の幕臣、陸軍奉行支配調役(待遇は御目見以下)となってしまった渋沢栄一は、新選組に仕事を依頼する立場でした。14、5人の同役。組頭は森新十郎。御書院番士で禁裏御警衛番士の大沢源次郎に国事犯の嫌疑あり。大沢源次郎は、若年寄支配の御書院番士だが、禁裏御警衛番士の動向は陸軍奉行支配だったので、京都町奉行から陸軍奉行に掛け合いとなった。多人数の共謀者がおり、兵器、銃砲もそろっているとのこと。陸軍奉行支配だから、奉行の名代として調役組頭森新十郎か調役の誰かが新選組に付き添うことになったが、根が浪人で強いからと渋沢栄一が任命された。京都町奉行の役宅で新選組局長近藤勇と渋沢篤太夫が面談。新選組の隊士6、7名に護衛されて、北野近辺の家に休息して、大沢源次郎を探偵。大沢源次郎は北野辺の寺院に止宿しているが、外出中。ほどなく帰宅。
新選組「寺院に踏み込んで捕縛する」
渋沢「それはいけない」
新選組「京都町奉行の役宅で、そう請け負った」
渋沢「私が正使だから、私が陸軍奉行の命を伝える前は、大沢源次郎は、まだ罪人ではない。」
新選組「捕縛してから言い渡してもいいのでは?」
渋沢「だめだ」
新選組「大沢源次郎が斬りかかってきたらどうする?」
渋沢「相手になる!」
新選組「そんなことできるのか?」
渋沢「自分は、世間知らずでひ弱な、がんこ武士とは違うぞ!」
冗談半分に問答。ともに笑った。渋沢篤太夫は近藤勇とともに寺院の中に入って、大沢源次郎はいるかと尋ねたところ、大沢源次郎は眠そうな目をして 寝衣(しんい)で出てきた。渋沢篤太夫は陸軍奉行からの命令を伝え、両刀を取り上げ、すぐに捕縛した。すんなりと大沢源次郎を捕縛(つまり、町田啓太さんの土方歳三の殺陣は、演出です)渋沢栄一が両刀をとりあげて、すぐに身柄を捕縛。新選組に京都町奉行引き渡して、任務終了。その夜、3時頃に、陸軍奉行 溝口勝如(みぞぐち かつゆき)に復命。溝口勝如は「誠に使いなる哉、誠に使いなる哉」と言って、羅紗の羽織を当座の褒美にくれた、とのことです。陸軍奉行 溝口 勝如の在職期間は、慶応元年7月17日 - 慶応2年10月8日とのことです。よって、大沢源次郎捕縛事件は、この間の出来事ということになります。渋沢篤太夫の復命するのを寝ずに待っていた溝口 勝如は怜悧の誉れ高い人物で、のち、勘定奉行(慶応3年1月16日 - 12月28日)を歴任し、田安徳川家の家老。明治25年(1881年)、親交のあった勝海舟は長男の勝小鹿が没したため、徳川慶喜の末子 精を養嗣子にしたいと願った際、まとめた人物です。


近藤勇(こんどう‐いさみ)
[1834~1868]江戸末期の幕臣。新撰組隊長。武蔵の人。名は昌宜(まさよし)。京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)の下で新撰組を組織し、尊攘派を弾圧。戊辰戦争で敗れ、斬首された。


法蔵寺 近藤勇首塚
行基の開基と伝わる古刹。室町期、徳川氏の始祖・松平親氏が再建。菩提寺とした。幼い頃の徳川家康(竹千代)が読み書きを学んだ寺。境内には新撰組局長近藤勇の首塚。慶応4年4月に江戸の板橋で斬首された近藤勇の首は塩漬けにされ京都に運ばれて、三条大橋西詰に晒された。3日後には首は新撰組の斎藤一(法蔵寺に残る逸話では、新撰組の「山口」なる人物が首を持ってきたとされ、斎藤一の別名・山口二郎か?)に持ち去られて、行方知れず。近藤勇の首は新京極裏寺町の宝蔵寺住職・称空義天の許に届けられたが、直前に法蔵寺住職となっていたので、最終的に法蔵寺に首が届けられた。当時、徳川家は朝敵、さらに近藤勇自身も罪人として処刑。墓碑は土中に埋められ存在は極秘。昭和33年、裏寺町の宝蔵寺の本山の誓願寺の史料から近藤の首の顛末が明らかになり、法蔵寺で調査の結果、墓碑の台座など発見。台座に新撰組の土方歳三らの名が刻まれており、ここが首塚であるとされたが、多くの疑問がある。斎藤一は当時、会津・白河付近で官軍と交戦の記録あり、直接京都へ赴くことは不可能。また法蔵寺で見つかった墓碑の台座の名前は土方歳三以外に新撰組の関係者なし。他の名前は当時、土方と共に宇都宮で官軍と戦っていた伝習隊や回天隊に属していた人物ばかり。台座に刻まれた年号が“慶応3年”であったという話もある(現在はその部分が判読不能)。謎の多い首塚だが現在では近藤勇の胸像などが設置され、新撰組ファンの参拝も多いらしい。


近藤勇斬首の刀 ひっそり
岐阜・揖斐川 介錯人の子孫宅
 新選組局長、近藤勇(1834-68年)が板橋で処刑された際に使われた刀や当時の資料が、処刑を務めた美濃岡田家の武術指南役、横倉喜三次のひ孫に当たる岐阜県揖斐川町三輪、無職横倉脩嗣さん(72)方に保管されている。大河ドラマの影響もあり、激動の時代を生きた近藤勇の最期を“看(み)取った”刀をぜひ見せて、と各地から依頼が寄せられている。処刑に使われた刀は長さ約1メートル、幅約5センチ。「二王」の名が付いており、室町時代に山口県の刀鍛冶、二王三郎清綱が打ったとされる。
明治天皇が名古屋訪問の際に閲覧したという当時の新聞記事の記録はあるが、一般向けに展示された記録は残されていないという。横倉さんの家には「横倉日記」と呼ばれる喜三次が記した日記や「大和守法会覚帳」と題した法要帳など、近藤について記した資料も15点ほど残っている。喜三次は、仕えていた岡田家から近藤の斬首を命じられ、1868年に近藤の命を絶ったが、横倉日記の中には「近藤の生き方に感じるものがあった」と、喜三次の複雑な心中をうかがわせる記述がある。横倉さんが刀を所蔵しているとの話を聞きつけた東京など各地の新選組ファンから「刀や資料を見せてほしい」と求められるが、横倉さんは「近藤の生き様に共感した曽祖父、さらには近藤のためにも刀を見せ物にはしたくない。大切に保管したい」と話している。」
(2004年4月5日付・中日新聞夕刊より引用)


近藤勇の最期
横倉喜三次が書き遺した『横倉喜三次覚書』によれば、近藤の身柄が岡田家預りになった時から度々近藤の許へ訪れていた喜三次は、処刑の直前に自身が太刀取り(介錯役)に選ばれたことを伝え「なんなりとも申し置かるる事これあれば承るべし。」と尋ねたところ、近藤は殊の外喜び「君の太刀取りにては何も申し置く事これなし。よろしく頼む。」と言ったという。これを聞いた喜三次は、首実検の唱文を唱えた後に本作にて切り落としたという。喜三次は同じ剣客として近藤に敬意を抱いていたとされており、処刑後には介錯による報奨金を全てつぎ込んで主君や自身の菩提寺から僧侶を招聘し、敵側である近藤の法要を行っている。また、近藤の命日である4月25日には、本作に花や酒を献して近藤の冥福を祈ったといわれている。明治時代には名古屋鎮台に行幸に来た明治天皇の天覧に供されたとされている。これは1888年(明治20年)2月に明治天皇及び昭憲皇太后両陛下が御還幸の途次に名古屋鎮台へ臨幸した際、喜三次の長男である横倉喜太郎が名古屋鎮台砲兵本部の一等軍曹として勤務しており、鎮台の将校下士が所持する応永年間以前の古刀を陳列して天覧に供すのに併せて出展されたものとされる。本作は喜三次の死去以降も子孫宅に保管されており、新撰組の人気が高まると共に本作を見たいという声が挙がる一方で、「近藤の生き様に共感した曽祖父、さらには近藤のためにも刀を見せ物にはしたくない。」という子孫宅の意向により一般的に公開されることはなかった。しかし、平成に入ってから研師の許に預けられて、2013年(平成25年)には子孫宅の厚意によって岐阜県立博物館に寄贈された。


映画『燃えよ剣』 主演:岡田准一。新撰組副長・土方歳三(岡田准一)。新選組局長・近藤勇(鈴木亮平)。なお、2020年5月22日(金)公開でしたが、公開延期となりました。映画『燃えよ剣』2021年10月、全国公開!出演:岡田准一


近藤勇生家跡
調布市指定史跡 指定:昭和52年4月25日   
​近藤勇 の生家・宮川家は、甲州街道の上石原宿の北方約2.4km、人見街道と小金井に通じる道の辻にあり。屋敷の広さは約2,120坪(約7,000㎡)。主屋のほかに蔵屋敷や文庫蔵、納屋など。庭内には築山が築かれ、屋敷の周りにはケヤキやカシなどが植えられ、裏手には竹林があり。富農であり篤農家であった、 近藤勇の実父・宮川久次郎は、天然理心流近藤周助を招いて屋敷内の納屋を剣術道場とした。勇が近藤周助の養子となった後は、この宮川家の道場が調布・三鷹地域の出稽古先として大いに賑わった。生家は、昭和18年(1943)、陸軍調布飛行場から飛び立つ戦闘機の妨げになるとの理由で取り壊された。現在は、勇が生まれた時に産湯に使ったと伝えられる井戸が残されている。調布市郷土博物館には、宮川家の協力を得て復原した生家模型(縮尺30分の1)が展示されている。井戸に隣接して、昭和元年(1926)に東京一円の軍人たちによって建てられた近藤神社がある。


天然理心流道場 撥雲館(はつうんかん)
また、人見街道を挟んだ地に天然理心流道場「撥雲館(はつうんかん)」がある。
撥雲館は、勇の婿養子である近藤勇五郎が明治9年(1876)に開いた道場。
その名は山岡鉄舟が命名し、看板に揮毫したと伝えられている。


近藤勇生家跡の公開情報
公開日 :通年
公開時間 :終日
料金 :なし


出没!アド街ック天国|毎週土曜9時|テレビ東京系
「千葉 流山」放送日:2021年10月16日(土)放送
開発ラッシュでお洒落スポットが続々誕生。「千葉のニコタマ!?」と子育て世代を狙い撃ち!4年連続人口増加率1位を誇る人気タウンなのです。子供達が遊べる豊かな森も魅力ですが、かつて商都として栄えた情緒ある蔵の街並みも残ります。千葉随一と噂のラーメンや、一流料理人も通う名店、フランスさながらのパティスリーなどこだわりの名店も注目。自然に寄り添う「流山ライフ」の魅力に迫ります。
ゲスト:サンプラザ中野くん、北斗晶


近藤勇陣屋跡 千葉県流山市流山2-109
流鉄流山線流山駅徒歩5分





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最終更新日  2021年10月16日 21時48分48秒
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