|
カテゴリ:テレビ番組
#どうする家康 #鳥居強右衛門 #武田勝頼 長篠城から岡崎城。なかなか、しびれる距離です!合掌。 第21回 長篠を救え! 武田勝頼(眞栄田郷敦)に包囲された奥三河の長篠城。城主・奥平信昌(白洲迅(しらす じん))はピンチを伝えるため、鳥居強右衛門(岡崎体育(おかざきたいいく))を岡崎へ送り出す。鳥居強右衛門の手紙を受け取った徳川家康(松本潤)は、織田信長(岡田准一)に援軍を求める。織田信長は二万を超える軍勢を率いて岡崎へやって来た。そして天下一統に突き進む織田信長は、参戦の条件として徳川家康に驚くべき条件を提示する。 [年表] 天正元年8月20日 家康、奥平定能父子に起請文。来る天正元年9月中に、亀姫の祝言、約束していた。のちに、結局、延期。 中略。 天正3年4月28日 信長、岐阜に帰城。 5月8日 勝頼、奥平貞昌(のちの信昌)が立て籠もる長篠城への攻撃を開始。 5月11、12日 長篠城、攻撃される。 5月13日 信長、信忠父子、長篠城の救援に出陣。 5月13日 武田軍から放たれた火矢で、長篠城の北側の兵糧庫、焼失。 5月14日 鳥居強右衛門、夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した。 5月14日 信長、岡崎に着陣。翌日も駐留。 5月15日 朝、鳥居強右衛門、雁峰山(がんぼうさん)から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。午後、鳥居強右衛門、岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請。この時、信長の援軍3万が岡崎城に到着していた。翌日にも織田・徳川連合軍3万8,000が長篠へ向けて出発する手筈となっていた。これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した。 5月15日 今川氏真、牛久保で後詰。 5月16日 早朝、鳥居強右衛門、往路と同じく雁峰山(がんぼうさん)で烽火を掲げた。長篠城入城を試みたが、城の近くの有海村(あるみむら)で、武田軍の兵に捕らえられた。 5月16日 信長、牛久保の城に宿泊。守備隊として、丸毛長照、福田三河守、置く。 5月16、17日 鳥居強右衛門、刑死。享年36
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年06月06日 13時39分03秒
コメント(0) | コメントを書く
[テレビ番組] カテゴリの最新記事
|