カテゴリ:信仰
私はクリスチャンなのに愛がないのかも・・・って思うことがよくある。
自分によくしてくれる人は好きだが、自分に不愉快にさせる人は嫌いである。あたりまえといえばあたりまえだが・・・。 自分のことを明らかに嫌いだというそぶりをしてる人や不愉快にさせる人を受け入れるそぶりをしたこともあるが、はっきり言ってとても疲れる。それにそぶりをしたところで、相手には口に出さなくても空気で伝わるものである。そんな自分が嫌になるのである。 私の信仰生活では、まず神様の愛に霊的にどっぷり浸からなければ人なんて愛せないのである。その前にあるがままの自分なんて愛せないのである。自分の欠点はよく見える。特に人を見ると特別よく見える。私はその足りないところをかつて自分の努力で満たそうとして失敗してきた。どうしようもなくて神様に頼った時道が開けてきたのである。そんな経験を何度もしてきたのにどうしてまず神様に頼らないんだろう。 自分の努力や人に頼った時は即効性があるが、一時的な場合が多い。しかし、神様により頼み祈れば、時間はかかるが確かである。それがきっと待ちきれないんだと思う。 いつも神様を見上げて・・というふうになるためには私自身、人の助けが必要になる。一緒に祈り、信仰を語る存在は不可欠である。でないと自分がしぼんでしまう。そんな私だからクリスチャンの旦那が与えられたんだろうなあ。それから、一緒に祈り励ましあう仲間が必要である。わがままだが自分で祈るより人に祈ってもらったほうが元気が出るのはなんでだろう。 神様の愛にどっぷり浸かれたら神様に愛されてるのが嫌というほどわかったら嫌な人も受け入れられるかもしれないなあ・・・もしかしたら。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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