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カテゴリ:村上春樹
夕方、久々に北浦和の図書館へ行く。ずいぶん以前に借りた10冊の本をそそくさと返却し、二階へ。時間もなかったので、村上春樹全作品の「国境の南、太陽の西/スプートニクの恋人」の巻を手にとり、巻末の著者による作品解説を読む。
これがたいへん面白かった。ふだんは自作について語らない春樹氏だが、「国境の南……」に関してはとても雄弁に語っている。「この作品の主題は~」という一節もあって、びっくり。最後の方には、なぜこの作品について雄弁に語るのかという理由も推測できるような一節がある。 最初にそこのところを紹介すると(すべて私の頭の中の記憶を頼りにしているので、細部は正確ではありません)、すくなくともこの作品は出すタイミングが悪くて、作品に対して申し訳ないという気持ちが作者にあるというのだ。この作品は、「ノルウェーの森」、「ダンス、ダンス、ダンス」の後、4年(だっけ)の沈黙を破る久々の長編という宣伝文句で出版され、それっと飛びついた春樹ファンが「え、これってちょっと」という感想をもつことが多かったようだと書かれている。 この作品は、最も重要な作品とも代表作ともいえないかもしれないが、自分自身にとっては内面的に大事な意味をもつ作品であるということが率直に述べられている。そして、この作品が一番好きだという読者がいる一方で、この作品だけは好きではないという読者も存在する。評価が割れた作品であるということも述べられている。このへんはよくわかりますね。私はそのどちらでもないけれども、小説としてはたいへんできのよい作品だと思っています。とくに冒頭の部分はいい。 面白いのは、作者が、この作品に関していちばん問題となるのは、「はたして島本さんは存在するか」ということだといっていることである。これはうれしかった。私は島本さん不在説だったから。もちろん最初から存在しないというのではなく、バーに現れた島本さんはおそらく幻想ではなかったか、ということだけれども。作者は、島本さんが存在するか、存在しないかというのは、読者一人一人の内面的な問題であるといっている。このあたりは作品が自分の手を離れたら、あとは読者の判断を待つという春樹くんの姿勢が出ていて、公正な文章の感触が心地よい。 さらにこの作品のテーマが幻想と現実、架空と現実の関係にある、もっといえばなんとかそれが共存しえないかというところにあると述べられているところも興味深い。 しかし、なんといっても冒頭に書かれたエピソードの意外性にはおもわずのけぞってしまった。なんと、この作品の第一章は「ねじまき鳥」の冒頭部だったというのです。どうです、びっくりでしょう。「ねじまき鳥」は作者がアメリカのプリンストン大学にいたときに執筆されている。一年間かけて第一部、第二部をなんとか書き終えて、書いているときにはその作品の中に没頭していたのだが、書き終えて全体を見てみると、なんというか、やや雑然とした印象があったというのです。この作品が自分にとってメルクマールとなるべき重要な作品であることはまちがいないし、自分もそれなりの熱意で書き進めてきて、ある程度の達成感はあるのだが、なにかもうひとつひっかかるものがある。 こういうときは、(と作者は書いている)配偶者に作品を読んでもらって感想を聞くことにしている。すると、奥さんは「うーん、なんだか、いろいろな素材が盛り込まれすぎていて、もう少し枝葉を切ったほうが中心線がはっきりするんじゃないの」というようなことをいったらしい。それを聞いた春樹君は「僕のその時の気持ちを表現すると、自分の思っていたことをある程度、その感覚を信用している人間にいわれて、(とてもひかえめにいって)頭を抱えてしまった」そうである。 その後、もう何を書く気もなくなって茫然とした日々を送ったとある。「でも、そのカットする部分もなかなか面白いから、別の作品として使ったらどう」と奥さんはいったそうだ。「しかし、そんな気楽な作業ではないのだ、ひとつの作品を書くというのは。のんきなことをいいやがって。小説を書くのは鯛焼きを焼くのとはちがうのだ」と春樹君はつぶやく。 しかし、気を取り直して、カットする部分を抜き出してみると、どうもその後、別の発展をさせて作品化することが可能であるような気がしてきた。そして、それが「国境の南」だというのです。どうです、おもしろいでしょう。 だって、「ねじまき鳥」の冒頭で、どろぼうかささぎを聞きながらスパゲッティをゆでてると知らない女性から電話がかかってくるシーンがあるけど、あれは実は冒頭ではなくて、「国境の南」のイズミ(「僕」が高校時代につきあっていた女性で、東京の大学へ行くときに捨てた女性。高校時代の友人がマンションに住んでいる彼女を見たという話と、最後の方で、これは幻想だと思うけど、「僕」が偶然彼女を見かけるシーンがある)からかかってくる電話という設定だというんだからね。これはおもしろかった。 冒頭部のカットによって結果的にオカダトオルは過去をなくすことになる。しかし、そのことによって彼は自分以外の人間の過去に一つの記号としてさまざまな関わり方をしていくための条件を(結果的に)そなえることになったと、作者は書いている。 自分の作品に対する、このような距離のとりかたは、読んでいて心地よかった。「僕にとって、この作品は、ベートーヴェン(にたとえるのもなんだかおこがましいが)の第八交響曲のようなものだ。第七でもなく、第九でもないひっそりとした作品ではあるが、今日は第八でなければだめだという日も人生にはあるのだ」と春樹くんは書いている。 図書館の立ち読みでこれだけ印象に残っているんだから、この文章がいかに印象深いものであったかということがわかる。そして、春樹くんの文章の理路のたしかさと正確さ、公正さが、こういう文章を(と私がいうのもおこがましいが)書かせたのもたしかなことである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.12.30 22:58:26
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