M17星雲の光と影

2006/06/09(金)22:02

自我は肥大しているか

「自我肥大症の患者が増えている。他人のことはいっさい目に入らず、利己心の命ずるままに行動し、知り合い以外はみな風景というような目つきで街中を歩いている人々が多い。実に嘆かわしいことである」というような発言をよく耳にする。まあ、たしかに私自身そう感じることがないわけでもないし、以前にそれに近いことをこのブログに書いたことがあったかもしれない(よく覚えてないけど)。でもこういうあまりにもわかりやすすぎる話には少し警戒心をもったほうがいいのではないかという気がする。 たとえば、今、電車に乗っているとする。駅にとまり、座席に座っていた人が一人立ち上がって降りていく。その近くには杖をついたおばあさんが立っている。その空席目指して、就職活動中とおぼしきスーツを着た若い女性が突進してきて、どっこらしょっと腰をおろし、さっそく携帯メールを打ちはじめる。 「ったく」。 車内にいた数人が、彼女をにらみつける。彼女はまったく意に介さず、ひたすら親指を小刻みに動かし続ける。 よくある風景である。そして、冒頭に挙げたような感想をこころの中に浮かべ、慨嘆される方もいることだろう。「このあさましい利己心のかたまりめ」と呟きながら。 でも、考えてみると、利己心っていったいなんだろう。自分を利する心というが、基本的に人間はそれを原理として日々生活しているのではないだろうか。だからこそ、これだけの個体数の人間が地上に満ちあふれているのであり、そういう一般的な性質をもって、この公徳心に欠けるおねえさんを罵倒するのは、いささか妥当性に欠けるようにも思える。それによく考えてみると、彼女がほんとうの意味における自我や利己心をもっているかどうか、かなり疑問である。 もしも彼女が利己心のかたまりであり、とにかく自分の身をわずかに空いたシートのスペースに押し込むことで、その自我の拡大欲求を満足させているとしたら、彼女はなぜにっこりと笑わないのだろう。そういう行動をする人間はたいていの場合、むっつりとして、無表情で、実につまらなそうな顔をしている。それはむしろよろこびを奪われた人間の表情のように私には見える。 おのれを利することは人間として自然な欲求であり、それを満たすことには何らかの快感が伴うはずである。だが、彼らの表情からは満足感もよろこびも感じとることができない。これはなぜだろう。 もう一度彼らの顔をよく見てみよう。電車の優先席を眺めれば実験標本はいくらでも見つかるから、ちょっと観察してみてほしい。 彼らの顔から読みとれるのは、無知、鈍感、視野狭窄、客観的判断能力の低さ、他者に見られているという意識の低さ、だいたいそういうところだろうか。これらはすべて欠如態である。彼らは積極的に何か(自我拡張も含む)をしようとしているのではなく、何かが欠けているために、どうしていいかわからない。そういう状態に置かれているように見える。自我や利己心を満足させようという明確な意思も、またそれを実現する方法や手段も彼らは持ち合わせていない。その結果として満足感もよろこびも得ることができない。だからこそ、あんなにつまらなそうな顔をしているのだ。 第一、自分で自分に与えることのできる快楽などたかが知れているではないか。より大きな快楽や利益を受けようと思ったら、他者に働きかけ、他者からそれを与えてもらうしかない。そうではないだろうか。 自我を拡張し、利己心を満足させようと思うのならば、杖をついたおばあさんに席を譲ったほうがはるかに合理的である。そうすれば、おばあさんは軽く頭を下げて感謝してくれるだろうし、周囲の人たちも好意的な視線であなたを見るだろう。その時、あなたはどういう表情を浮かべるだろうか。まったくの仏頂面というのは、この場合むずかしそうだ。頬が少しゆるむ。少し照れくさい。でもけっして悪い気分ではない。ある種のよろこびのようなものも得られる。こちらの方が自我の満足度もはるかに高いのではないだろうか。 ほんとうのところ、席を譲ることが善行であるかどうかは誰にもわからない。ひょっとすると席を譲られた相手は年寄り扱いされたことで気分を害しているかもしれない。でもそんなことはどうでもいいのである。これはあくまでも自分のこころを利するための自己満足の行為なのだから。 じゃあ、彼らはなぜこういう行為を行わないのか。みすみす得られるはずのよろこびを味わうことなく、無愛想な顔をして席に座り込み、周囲の冷たい視線を浴びて、ますます不愉快になっていくのか。 それはやり方がわからないからである。自己満足を得るための方法を彼らは体得していないのである。「席を譲る」と一口にいっても、これはかなり文化的成熟を要する行為である。ただ立ち上がっただけでは「譲る」ことにはならない。それにふさわしい態度、表情、ことば、物腰がそこでは要求される。しかし、そのような光景を日常的に目にし、何度か自分でも反復練習してみないことには、それをスムーズに行動にうつすことはできない。 そんなことは自分で自然に学びとるべきものだ。そういわれるかもしれない。私もそう思う。でも、彼らが子どもの頃からそういう習慣を自然に身につけられるような環境をわれわれが用意できていたかといわれたら、そうだと言い切る自信はない。 たとえ個人的にこれまで何百回席を譲ってきたとしても、それで免責されるものでもないだろう。少なくとも礼儀を知らない若者を責めるのと同程度には、マナーの学習環境の整備を怠ってきた自分自身も責める必要があるように私は思う。 われわれが若者に教えるべきなのは、公徳心の大切さや他者へのおもいやりや弱者へのいたわりではない。そんな形のないあいまいなものを教えることなどできるわけがない。(少なくとも私にはできないし、それらを他人に教わったおぼえもない)それに公共の場におけるマナーが失われているから、公徳心を教えようというのは、順序が逆である。マナーというのは意味もわからず、機械的に反復する中で、公徳心を涵養するための文化的装置なのだから。 それに、若者たちが「譲る」ことをこれまでどこで教わってきたというのだろうか。学校?塾?アルバイト先?部活動?会社?あらゆる場所で彼らはむしろ「譲るな」と教え込まれてきたのではないか。これでは自然に席を譲ることができないのはむしろ当然のことのように思える。 私たちにできるのは、他人に何かを教えることではなく、自ら行うことだけである。自分の信じるマナーを公共の場で実践し、それによって自己満足を感じ、心地よさげに楽しそうに振る舞うことだけである。それを見て、一人くらいは「あ、あの人楽しそう」と思ってくれるかもしれない。そして、その快楽を追求すべく、同じマナーを模倣し、反復してくれるかもしれない。それで十分ではないだろうか。 でも皮肉なことに、今電車の中で心地よさげに、楽しそうに振る舞うことほどむずかしいことはないのである。なぜかって?だって、周りがみんな不快そうな顔してるんだもん。それ見てたらこっちも不快な顔になっちゃうし、そこでまた不快な顔がひとつ増えて……。うーん、この悪循環の出口はいったいどこにあるのだろうか。

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