M17星雲の光と影

2006/08/24(木)20:25

「卑劣」について

どうにも文章を書く気分になれなかったので、しばらく更新をさぼってしまった。 でも、そういう気分になる時はある。多忙や、体調不良や、上からの無理難題や、内部連絡の悪さからくる問題の発生などに対しては、ある程度の免疫ができている。しかし、人間の卑劣さと正面から向きあうことに対しては免疫はできていないし、そんなものを作ろうとも思わない。口の中にむりやり砂を押し込まれたような気分に慣れることなどできないし、そういう状態で文章を書くこともできない。なんとか砂を吐き出す努力を続けたが、まだ砂粒が口の中に残っている感触がある。 詳細は伏す。月曜の午前、公的な機関の要請によるかなりハードな仕事をこなした後、上の人間からお呼びがかかり、部屋に入った。しばらく世間話をした後、一通の手紙を見せられた。それは組織のトップ宛に届けられた封筒に入っており、そこにはワープロの毛筆書体で私を誹謗中傷する手紙が入っていた。まったくの根も葉もない事実無根の中傷である。要するに私をクビにしようという狙いで出された匿名の手紙だった。 四十何年生きてきて、これほどあからさまに卑劣な敵意に向きあったのははじめてだ。消印は一週間近く前。その席には他に二人の人間がいた。幸い誰一人としてその文面の内容を信じる人間はいない。 「誰か心当たりはあるか」ということを確認するのが呼ばれた理由のようだ。心当たりはない。私は善人ではない。どちらかといえば悪人の部類に入れられても文句はいわない。しかし、卑劣さとは一線を画した生き方をしてきた。いわれのない中傷を浴びる覚えはない。 肌が粟立つとはああいうことをいうのだろう。その手紙を読んでいるうちに気分が悪くなってきた。そして、徐々にその気分の悪さの原因がわかってきた。 この人間の知的レベルはかなり高い。不思議なほど直接的な感情の動きやあからさまな気持ちの暴発が感じられない。しかも、文章はそれなりに整っている。内部事情には詳しく、具体的な名称の記述は正確である。 「誰もその内容を事実と思う者はいない。しかし、その手紙がいま目の前にあるのは事実だ」 まったくその通りだ。私はうなずく。 不思議なことに一瞬の感情の動揺の後に、私はその文章を分析的な目で観察している自分に気づいた。未知の人間の書いた文章を手がかりにして、その人間の内面に分け入っていくのが、考えてみれば私の仕事のひとつだった。添削指導とはそういう仕事なのである。 こんな状況でも職業的な観察眼が半ば自動的に発動されてしまうのか、まったく因果な仕事だ、と私は思った。そして、そう思いながらも頭の中の半ば無意識の分析作業は続いた。 この人間は私との個人的、直接的な接点をほとんどもっていない。 まずそのことが体感としてわかる。個人的に接触した範囲の中にいる人間の文章ならば、私はその文章だけを見て、その人間をほとんど言い当てることができる。別に自慢できるような能力でもないのだが。 そして、ある程度の「頭のよさ」というものが、いかに悲しい能力であることかと私は思う。 頭で考える人間、その考えに忠実にしたがう人間の行動は頭で解けてしまうのである。これが突発的な感情の暴発や、なんの法則性もない、でたらめな気分で行動する人間であるならば、たった一枚の手紙から、それを書いた人間の所在を探りあてることなどできるはずもない。しかし、頭で物事を考える人間、実際以上に自分の「考える能力」を過信している人間の行動は、その考えを逆向きにたどることで、その人間自身にたどりつくことが可能なのである。 私はその場でそのことだけを確認した。 「私はどうすればいいんでしょう」 「いや、もちろん何をする必要もない。ただ身近なところにそういう人間がいるということだけは知っておいたほうがいい。何かわかったことがあったら○○さんに報告してほしい」 それで会合は終わった。部屋を出る時、そういう問題の管轄部署の責任者である○○さんは、私の肩をひとつぽんと叩き、「有名税だよ」といった。 「ぜんぜん有名じゃないんだけどな」。私は苦笑した。 その一日は最低の気分だった。精神的な不快感が直接、肉体的な不快感につながり、そのふたつのものを区別することが困難だった。しかし、その一方で悲しいことに頭は勝手に分析作業を続けていた。 考えるというのは悲しい能力だ、と思った。しかし、仕方がない。こういう状態のままではにっちもさっちもいかない。私は村上春樹の「沈黙」という作品のことを頭の隅に思い浮かべた。 今ここに二人の人間がいたとする。Aは自分のたいせつなものをある部屋のどこかにそっと隠す。Bはその場にはいない。しばらくしてドアが開き、Bが入ってくる。そして、BはAの隠したものを探しはじめる。Aはその時、その部屋にいてもいいし、いなくてもいい。そのいずれかをBは選択することができる。こういう場合、あなたはどちらを選ぶだろうか。私ならばAがその場にいることを望む。Aの視線、Aの立ち位置、息づかい。それらがヒントになるからだ。Aは無意識のうちになんとかそのものを見つけられまいとして、さまざまな反応を示す。それを手がかりに探すことが可能になるからだ。 自然にどこかに姿を消してしまったものを探すのは難しい。しかし、誰かが意図的に隠したものを探すのはそれよりもやさしい。なぜならば、隠した人間は、なんとかそのものを隠し通そうとするからだ。それがさまざまな形で外界に形として、兆しとして表れる。それらを観察すれば、ターゲットにたどりつくためのヒントが得られる。 人は何かを隠そうとすればするほど、実はそのものの露顕に手を貸してしまうのである。そういう目であらためて記憶の中にあるその文章を思いだしてみる。あそこには様々な具体的情報が書かれていた。同席した他の人間はその情報を手がかりにしてなんとか人物を特定しようとやっきになっていた。 しかし、それはちがうと私は思った。むしろ逆だ。この人間は文章を読む限り、頭で考える人間だ。文面に具体的情報があるとしたら、それはあくまでも意識的な行為の結果である。そしてその意識的行為とは「自分の関与したことを隠蔽しよう」ということに違いない。すなわち、ここにある具体的情報はすべて偽装の手段と考えたほうがいい。まずその人間が存在するであろうおおまかなエリアを設定する。次に、そこから手紙や封筒に残された具体的な情報をひとつひとつ慎重に排除していく。そうすると、影絵のように情報を抜き取った後の「地」の部分に特定の人物像が浮かび上がるはずである。私はそう思った。そして、頭の中でその作業を実行した。あれではない、これでもない。そうすると残るのは「これ」か、というふうに。しばらく、その消去作業を続けていくと、意外なほどあっさりとこの手紙の発信源を特定することができた。もちろん確証はなく、物証もない。単なる推測にすぎない。しかし、推測であってもターゲットを特定することができれば検証することは可能だし、再発防止のために手を打つこともできる。 もしも私が探偵ごっこを好むのであれば、こうして発信源にたどりつくことでいくばくかの満足感を得ることもできただろう。しかし、私はそういうことにはまったく興味もないし、関心もない。再発を防止するために最低限のことはやるかもしれないが、卑劣な人間を指さして「オマエは卑劣だ」といってみてもはじまらない。そんなことは最初からわかりきっていることなのである。 なぜ人は自らの卑劣さに屈し、自分の誇りを投げ捨てるのか。そして、そのために自らの頭の力を使おうとするのか。 そんなことをするために頭は首の上に乗っかっているのではない。 そう考えると、そもそも頭を使って文章を書くという行為がどのような意味をもつのかと思えてくる。 以上がしばらくの間、文章から離れた理由である。 とてもむなしい気分だ。砂粒は確実にまだ口の中に残っている。

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