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テーマ:好きなクラシック(2300)
カテゴリ:音楽
朝起きて、あくびをしながらマンションのエレベータに乗って階下に新聞を取りにいく。
三階でリュックサックを背負った小学校3年生くらいの男の子が乗ってくる。赤い体操帽をかぶって扉の脇で横向きに立っている。見覚えのある顔だ。3~4歳くらいの頃からおばあさんの自転車の荷台に座ってエレベータによく乗り込んできた。たぶん保育園の送り迎えだったのだろう。何か事情があるのか、マンションの祖父母と同居しているらしい。おばあさんはきさくな人でエレベータの中で何度か世間話をしたことがある。自転車なのでいつもこちらが「開く」扉を押して待っていると「すいませんね」といいながら乗り込んでくる。坊やは人見知りで、話しかけても下を向いて黙っていた。 もうこんなに大きくなったんだ。しかもなかなか端正な顔立ちだ。立派な男前予備軍の一員である。赤い帽子をかぶっているということはたぶん……。 すると男の子がこちらを見上げてこういった。 「今日、運動会なんだー」 「そう、何時から?」 「う~ん、わかんない」 「ま、たぶん朝からだな。それで走るの?」 「うん」 「足、速いの?」 男の子はこくんと小さくうなずく。運動神経もよさそうだ。 「一番になれるかな?」 小さくうなずいた首が、ゆっくりと旋回を始める。 「うーーん、わかんなーい」 「一生懸命走れば、きっとなれるさ」 そう言って彼の肩のあたりをぽんと軽く叩くと、開いたエレベータのドアから、まるで手を離したぜんまいじかけのおもちゃみたいに外へ向かって駆けだしていく。 「いってきまーす」 「いってらっしゃい、がんばるんだぞ」 朝、エレベータの中でねぼけ顔のおじさんに声をかけた瞬間から、おまえの一位は約束されてるぞ、坊主。 という感じで一日がはじまる。いつもこうだといいのだけれど、なかなかそうはいかないのが人の常である。 だが、おそらく男の子が私に声をかけてくれたのには訳がある。それは私の顔に漂っていたであろう夕べの音楽の記憶である。 金曜の夜、サントリーホールにロジェストヴェンスキー指揮、読売日本交響楽団定期演奏会を聴きに行った。曲目はボロディンの交響曲3番、1番、2番。かなりマニアックな選曲である。招待券をもらわなければ、まず聴きにでかけることもなかっただろう。 アークタワーズというのだろうか、向かいの巨大なビルの蕎麦屋で腹ごしらえをして、会場へ向かう。 しかし、このホールは感じがいい。慎みのある華やかさというか、おちついた優雅さのたちこめる空間である。さすがのサントリー嫌いの私も、このホールの良さは認めざるをえない。吉田秀和氏の名随筆「サントリーホールの階段」を思い浮かべながら、エスカレータ脇の階段をしずしずと上る。 席は二階席の上方。眼下にオーケストラの全景が見渡せる。ハープの女性奏者が練習をしているが、音響効果も良好だ。アコースティックな響きを自然に遠くまで届ける配慮がなされており、聴いていて耳が心地いい。どれほど完璧なオーディオ装置を使っても、これほどの再現音を聴くことはできないわけだから、考えてみれば贅沢な体験である。 ボロディンというとロシア五人組の一人、音楽の教科書に出てくる例の「韃韃(だったん)人の踊り」の作曲者だというくらいしか予備知識がない。何百枚もあるクラシックCDの中でもボロディンの曲は、例のカルロス・クライバーのボロディン交響曲第二番一枚のみである。それも同じ盤に入っているモーツァルトの交響曲第33番のほうばかり聴いていて、ボロディンは数えるほどしか聴いていない。しかし、天才クライバーもついに亡くなってしまった。どれほどの才能も出し惜しみばかりしていてはしかたがない。惜しいことをした。なんでモーツァルトの33番なんか振ったんだろう。死ぬまでに彼の振る39番、40番(!)、そしてジュピター(!!)を聴いてみたかったなあ。あとベートーヴェンの英雄も。冒頭の和音を彼がどんな感じで響かせるか、いつも夢想していたのだが、ついに夢想で終わってしまった。最終楽章の変奏曲なんか絶品だったろうなあ。と思っても今となってはしかたがない。見果てぬ夢に終わってしまったか。かえすがえすも残念である。 おっと話が脱線してしまった。ボロディン、ボロディンでしたね。 彼は2曲の交響曲と1曲の未完成の交響曲を残した。未完成が第三番。これが今日、最初の曲目である。 定刻にオーケストラが舞台に上がってくる。一人遅れてコンサートマスターが拍手を浴びながら登場、そして巨匠ロジェストヴェンスキーがしずしずと舞台中央へ歩いてくる。 パンフレットによると年齢は75歳。しかし背筋はぴんと伸びている。頭の中央部が禿げ上がり、まるで散髪帰りのお茶の水博士のようだ。親指と人差し指で細い指揮棒をひょいとつまみ、さりげなく演奏が始まる。上体の力を抜き、体はほとんど使わない。ひじから先だけをしなやかに動かし、手首を柔らかく使って、音楽をスムースに、自然に、しかし明快な指示のもとにのびのびと展開していく。二階席から見ていても、とてもわかりやすい指揮だ。大げさな動作ひとつないが、どのパートに力点を置いているか、テンポはどうして、旋律はどう唄わせるか、それが指揮棒の先から細い糸のように楽員に放射されているのが見てとれる。 オーケストラもそれによく応えている。管はよく唄い、弦の統制もとれている。トゥッティの時の第一バイオリンのひじの動きがよく揃い、視覚的にも美しい。ティンパニーの響きもいいし、ホルンもがんばっている。正直言って、これほど水準の高いオーケストラとは思わなかった。ベートーヴェンやブラームス、それにブルックナーだって悪くないだろう。圧倒的な迫力というのではないけれど、弦主体の交響曲を味わう上では何の不満も私は感じない。これで十分ではないかというのが率直な印象である。 ボロディンは基本的には音色と旋律の音楽家ではないかと思う。時折、ラヴェルのような鮮やかな音色のひらめきがあり、多彩な画に向きあうようなはなやかさがある。その一方で旋律がよく「立っている」。自律した旋律が音楽の中心にあるせいで、その展開がとてもたどりやすい。旋律があまりにも明確なので、曲の中でその旋律がほぐれて解体し、それがまた徐々に形を作っていくような音楽の生成の喜びを十分に味わえないといううらみを感じることも時折あるが、まあ、それは強いていえばという話である。初めて曲に接する人間にとってはむしろこのほうがありがたい。消化不良にならず、しかも劇場的効果も堪能できるすばらしい演奏であり、曲だった。 第三番は他の人の補筆が入っているせいか、思いのほか、単純な曲という印象。でも耳には心地いい。スタジオジブリの映画のバックに流れていても何の違和感も感じないような、軽やかでチャーミングな音楽である。弦の合奏の精度も高い。この曲を冒頭にもってきたのは正解だろう。 第一番もいい曲だった。第一楽章ではさきほどいった音楽の生成のよろこびを味わうことができる。ここには少しベートーヴェンの香りがする。もやもやとした薄明の中から徐々に主題が立ち上がってくる姿がいい。第二楽章のスケルツォは旋律の喜びが感じられ、第三楽章のホルンものびやかで気持ちがいい。彼の曲はどこまでも広がる草原を思わせる。その上を悠然と吹き渡る風のように息の長い旋律がゆったりと流れていく。第四楽章のひきしまった造型も見事である。フィナーレは圧倒的だった。少しずつずらした弦の合奏が波のように寄せては返していく展開部を聴いていると誰もが「ああ、シューマン」と思うだろう。ロマン主義の大きな波を感じさせる終結部だった。 楽曲終了後、掌が赤くなるほど拍手した。見事な演奏だった。 第二番は勇壮なテーマの合奏で開始される。やや単純なブラームスという感じの出だし。旋律もよく唄っている。大地の轟きが聴きとれる。第二楽章はチャーミング。管楽器による旋律の応答のさまが楽しい。草原の上の軽やかなステップ。第三楽章はハープで始まる。そしてホルンののびやかな旋律。大草原の上をゆったりと吹き渡る風。そしてそこから一瞬の間もおかず、唐突に第四楽章の華やかな舞踏会が開始される。大地の地鳴りのような響きがそこに重なる。突き上げるような高揚感。激しく打ち鳴らされるシンバルの響き。 最後の大きな和音の塊が二尺玉の花火のように盛大に目の前で弾け散った瞬間、全曲の演奏が終わった。拍手喝采の中、ロジェストヴェンスキーは三度舞台を往復し、まだ鳴りやまぬ賞賛の嵐の中、コンサートマスターの背をわっしとつかみ、舞台袖へと拉致し、当夜のコンサートは終了した。 やわらかな弦の響き、軽快な管の声、リズミカルなティンパニの打撃音、のびやかなホルンの旋律、ハープ、シンバル、トライアングル。さまざまな音が互いに顔を見合わせながら、大きなひとつの球体を作る。それが一気に目の前で弾け跳ぶ時の爽快感。その余韻が今朝の私の頭にもまだ残っている。 昨晩の余韻に浸っているうちに、時間は正午を過ぎた。あの坊主、先頭でテープを切ることができただろうか。 こうして土曜の半日が過ぎようとしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.30 12:21:43
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