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カテゴリ:猫のいる公園にて
日曜日、実にほぼ半年ぶりに猫さんのいる公園へ出向く。
実は一週間前にもその公園に立ち寄ってみたのだが、旧友「ひのき」の姿をその時、見ることはできなかった。それで、まだそこに棲息しているのかどうか、気になっていたのである。でも、その日、公園の隅には「クロ」とその息子「ろびん」の二匹が倉庫の軒下にうずくまっていた。ずいぶん大きくなっていたので、はたしてほんとうに「ろびん」かどうか、確証がもてない。一声鳴けば、見当がつくのだが、警戒して沈黙しているのでたしかなことはわからない。でも、どうやらご飯にもありつけているようで、二匹とも健康そうである。と思っていると、目の前を小さな影が走りすぎる。あれ、子猫かな。そう思って床下を覗き込むと、ろびんとそっくりの毛並みをした生後3~4ヶ月くらいの猫が二匹いる。どうやらろびんの新しい兄弟のようだ。以前のろびんによく似ている。一匹は比較的積極的、もう一匹は引っ込み思案で、尾っぽの先が横に曲がっている。兄弟二個体が対照的な性格というのは、人間だけでなく、高等哺乳類に共通する性質なのだろうか。たしかに生存戦略上、そのほうがどちらかが生き延びる可能性は高いように思える。さしづめ私はあの尾っぽの先が曲がったほうだな、などと考えながら、その公園を後にした。それが一週間前のことである。 翌日も気になって公園に寄ってみたのだが、小学生が4~5人、大声でわめきながら騒いでいる。幸い猫はこのような下等動物の危険性を熟知しているので、当然のことながら姿を隠している。ま、しかたないな。そう思いながらも、やはりひのきのことが気にかかっていた。 そして昨日。意を決して公園に立ち寄ることにした。天気は晴れ、高い空にうろこ状の真っ白な雲が浮かび、暑くもなく、寒くもない、さわやかな秋の休日である。おそらくは猫さんも活発に活動していることだろうとの予測のもと、いそいそと公園へ出向く。 しかし、公園には誰もいない。刈られたばかりの雑草と植え込みがあるばかりで、人も猫もいない。また空振りか。そう思いながら、ゆっくりと公園を一周する。帰ろうかとも思ったが、念のため、そのあたりを一周して、猫さんを探してみる。 公園の周囲の住宅街を一回りしてみたが、猫一匹いない。公園の向かいにある家の塀の上から、大型犬が顔を覗かせているだけだ。おそらく声帯をとられているのだろうか、吠えることもかなわず、哀しげな顔でこちらを見ている。その家の前を通り過ぎ、公園の向かいにある保育園の植え込みのあたりも覗いてみたが、ひのきはいない。以前にはここで何度か見かけたことがある。うろうろとそのあたりを歩いてみたが、まあ、仕方ない。そう思って、公園の中へ戻ろうとする。 その時、猫の声がした。どこか住宅街の中から聞こえるようだ。気のせいか、ひのきの声に似ているような気もする。私は懸命に周囲を見回す。しかし、猫の姿は見えない。どこかの家の飼い猫かもしれない。でも、それにしては、何度も何度も訴えかけるように大きな声で鳴いている。いや、やっぱりあれはひのきの声じゃないか。 そう思って、私は公園の入り口に向かって渡りかけた路上で背後を振り返り、ふと上を見上げる。どうも鳴き声は上の方から聞こえるようなのだ。すると、公園の向かいの保育園の屋根の上から一匹の猫が顔を出して、こちらを見おろして懸命に鳴いている。眼の悪い私は何度か眼をぱちぱちとしばたいて対象物に焦点を合わせようとする。黒と茶の縞模様が見える。やっぱりひのきだ。ひのきーー。 ひのきは懸命に声を振り絞って鳴きながら、こちらを見ている。私も手を振る。でも、ひのきのいるところはふつうの住宅なら二階屋の屋根の上くらいの高さである。そこから飛び降りたら足が折れてしまう。ひのきは鳴く。私は手を振る。そして、振りかけた手を止めて、ぐるりと右側に円弧を描く。ひのき、向こう側から降りてくるんだ。でも、こんな粗雑なボディー・ランゲージをはたしてひのきは解してくれるだろうか。私は「飛び降りるな」という思いをこめて手を左右に振り、ぐるりと右側にもう一度円弧を描く。二三度鳴いた後、ひのきは鳴くのを止めて、顔を引っ込める。はたしてわかってくれただろうか。 しばらくすると、住宅街の右手のブロックの角を曲がってひのきがやってくる。なんて賢いんだ。ちゃんとわかってたんだ。ひのきは道の端に沿って、小走りにこちらに駆けてくる。「にやー」と鳴きながら。私はしゃがんで待ち受ける。ひのきは私の右膝あたりを額のあたりでぐりぐり押すと、おもむろにごろんと横になって腹を見せる。いつもの親愛のポーズである。撫でてあげたいのはやまやまだが、ここは車の走る道路の脇である。「ひのき、あっちにいこう」といって、公園へ向かう。ひのきはうしろから鳴き声を上げながらついてくる。半年前とまったく同じ光景である。 背中をさわると少し骨張っており、やや痩せ気味だ。でも黒と茶の毛並みはいい。つやがある。後ろ足のあたりに少し毛が抜けて、ピンクの肌が剥き出しになっている箇所がある。怪我か、疥癬か何かを掻きむしった後か、でもそれ以外は大丈夫。ごろりと寝ころんだお腹を撫でると眼をつぶってじっとしている。喉の下をくすぐると、「ぶふう」と息をしながらご機嫌である。 半年も会っていないから、はたしてひのきが私を覚えているかどうか、正直不安だった。猫と半年ぶりに再会した経験などこれまで一度もないし、猫の記憶のメカニズムがどうなっているかなど見当もつかない。それなのに、ひのきのほうがこちらに気づいて「おーい」と呼び止められるなどとは予想もしなかった。第一、声も出さずに探している私にどうやって気づいたのだろう。保育園の屋根はまわりが高くなっており、身を乗り出さない限り、下の様子はわからない。どうしてひのきは真下を歩く私に気づくことができたのだろう。 公園の入り口にはいつのまにかクロとろびんがちょこんと座って待っている。この間は軒下から出てこなかったくせに、今日は置物のように二匹並んで、私とひのきをお出迎えである。ひとしきり再会の儀式が終わると、ひのきはいつものクールなひのきに戻る。いつまでも甘えたりはしない。さかんに毛繕いを始め、痒いのだろうか、体のそこかしこをがつがつと噛んでいる。私のほうはもう見ない。かわりにひのきの脇でろびんがごろんところがる。触ってあげたいのだが、ろびんもおっかなびっくりである。どうしていいかわからず、とにかくごろんごろんと体をころがすのみである。 公園の奥のベンチのところへ行くと三匹ともついてきて、思い思いに毛繕いを始める。そのうち、ろびんの小さな兄弟も向こうのフェンスの陰で鳴き始め、一匹が飛びだしてきて、ろびんとじゃれはじめる。ベンチに座って、その姿を見ていると幸せな気持ちになってくる。 再会の瞬間のコミュニケーションの濃密さ、そして、再会の儀式が一通り終わった後、日常に戻る時の切り替えの速さ。「ああ、いいんだ、あんたはそのへんにいてくれるだけで。おいらはそれで満足だから。そちらはそちらで好きなことやってくれてていいんだよ。おいらもちょっと身繕いをしているからさ。」ひのきはそういっているようである。 この成熟した意思疎通の方法をひのきはいったいどこでどうやって身につけたのだろう。餌をあげるわけでもない、ただ傍にいるだけなのに、ひのきは満足そうに陽射しを浴びながら一心に毛繕いをしている。ろびんは兄弟とじゃれあっている。クロは母親らしくあちこちにいる子どもの心配をしている。 子猫が大きな声で鳴きだしたので、早晩、隣の家に住んでいる下等動物ががらっと窓を開けて嫌味を言いにくるだろう。ひのき、悪いけど今日はこのへんで。また遊びにくるからな。元気にしてろよ。風邪引くなよ。 ひのきはちらっとこちらを見る。そして、また熱心に毛繕いに戻る。 会いたい人に再びめぐりあった時の大きなよろこび、そのよろこびを味わった後は、そのかけがえのない人と日常をともに過ごせる幸せをじっくりと噛みしめる。身も焦がれるような思いの強さと、それを日常に着地させる慎重な配慮と。 「猫と人間とどちらが頭がいいか」という先日の養老先生の講演の一節を思い出す。養老先生、人が悪いなあ。あれはひっかけだったんですね。「猫」と「人間」というような粗雑な一般化を行って問いを立てる人間の方が頭が悪いに決まっている。そういうことなんですよね、おそらく。 猫と人間のどちらが頭がいいか、それは私にはわからない。私にわかるのは、ひのきは私よりも頭がいいということ、それだけである。少なくとも再会の作法の洗練度において、そのよろこびを日常にリンクさせる配慮の慎重さにおいて。 そして、小さな奇蹟を生み出す、その意思の力の強さにおいて。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
『海辺のカフカ』のナカタさんを一瞬思い浮かべましたがすぐに違うな、と打ち消しました。ナカタさんは「人か猫か」の二者択一の中から猫を選ばされた/いつの間にか選んでいた/猫に選ばれたように思いますがM17星雲さんはどれとも違いますね。
言葉を仕事としつつ(あるいはそれだからこそ)言葉によらないコミュニケーションを軽やかにとっているように見えてうらやましく思います。猫さんエントリを読むたびに、私は言葉の呪縛にとらわれているなぁと思ってします。 M17星雲さんは猫さんとの付き合いを意識的意図的にされているんでしょうか? (2006.10.18 22:52:45)
ほんのしおりさんへ
一瞬でもあのナカタさんを思い浮かべていただいたとは、光栄の至りでございます。残念ながらこちらは俗塵にまみれ、あのような聖人とは遠く隔たったところに生きておりますが。 そもそも子供の頃から私は典型的な犬派だったのですが、二年前、後に「ひのき」と呼ぶことになる子猫に偶然出会ってから、猫さん派に宗旨替えをいたしました。そういう意味では意識的、意図的なものではなく、猫さんに呼ばれたんでしょうね。最近では道を歩いていても、おいでおいでをするといろんな猫さんがひょこひょこと近づいてくるようになりました。どうも人間よりも猫さんとのほうが相性がいいようです。 彼ら(彼女たち)とのつきあいで印象的なのは、その「コミュニケーション」のあり方です。細やかでゆたかで奥が深い。そういう部分をこれからも学びたいと思っております。 ともかく、こんな猫の話を読んでくださる方がおられるかどうか、自分でも半信半疑でしたので、コメントありがたく拝見しました。また遊びにいらしてください。では。 (2006.10.19 19:09:53)
今日、偶然にも会社からの帰りに猫さんにおいでおいでをしているのに逃げられてしまった人を見かけました。どうも猫さんと触れあいたいというよりは「猫をかわいがっている自分はかわいい」というオーラが見えましたよ。
またお邪魔します。 (2006.10.20 01:24:57)
ほんのしおりさんへ
こちらも今日ブックオフで見つけた本は、偶然にも「猫だましい」(河合隼雄)、「さすらいのジェニー」(ポール・ギャリコ)でした。どうやら猫さんデーだったようです。では。では。 (2006.10.20 06:19:41) |
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