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カテゴリ:その他
「教育に関して次のような考え方がある。
A 教育において、あらゆる人は出来る限り平等に扱われなければならない。 B 教育において、それぞれの人は能力の違いに応じて異なった扱いを受けるべきである。 A、Bいずれかを選択し、その根拠を述べ、もう一方からの反論に対処せよ。」 そういう問題を小論文の授業で取りあげたことがある。実際に大学入試で出題された問題である。参考までにということで、文章を書かせる前に、どちらにより共感を覚えるか、生徒に手を挙げさせてみる。 「Aを選ぶ人」。 しーん。一人の手も挙がらない。 「じゃあ、B」。 迷っている数人を除いて、クラス全員、20名ほどの手が挙がる。 彼らの顔を見ていると、もうほとんど考える余地などない、という感じである。念のためにいっておくと、彼らは全員、海外で教育を受けた経験がある。その多くはアメリカからの帰国生である。 しかし、国内生に同じ質問をしても、ほとんど同じような反応が返ってくるのではないだろうか。彼らは平等に倦み、能力別教育を自明の前提として当然視している。 「ふ~ん」と私は言って、生徒にそのまま小論を書かせる。これはある種の思考力と文章力を試すゲームであって、思想信条をチェックするものではないと一言つけ加えながら。 回収した答案に目を通すと、ほとんど全員がBを選び、具体例として数学教育を挙げ(少数の者は英語が不得手な頃、ESLで基礎教育を受けた例を挙げている)、「人の能力には生まれつき高低の差がある。それに応じた能力別の教育を施すべきである」と述べている。 まあ、予想された結果ではある。翌週、その問題の解説授業を行う。 「小論文は一種のゲームだ。理解力、表現力、思考力、構成力、発想力。さまざまな能力を文章を通していかにアピールするかということで勝敗は決する。もっとも重要なポイントは思考力だ。それはいいかな」 生徒は黙ってうなずく。 「じゃあ、聞くけど、『考える』の反対語ってなんだ?」 「うーん、『考えない』かな」 「それって、語じゃないだろ。二語じゃなくて、一語で答えるとすると?」 生徒は考えこむ。しばらくして、 「感じる」という答えが返ってくる。 「なるほど、理性対感性ってわけだ。それもひとつの答だ。他には?」 「えーと、ぼんやり。」 「ぼんやり?オレはしょっちゅうぼんやりしながら考えてるけどな」 生徒はまた考えこむ。あまり答が出てこなくなる。 「オレの考える答は『あたりまえ』だ」 「あたりまえー?なんで?」 「先週の問題でほとんど全員がBを選んだ。そしてほとんどが人間には生まれつき能力差がある。だから能力別教育が望ましい。そう書いた。それ自体はいい。何を書くかは自由だ。でも、それらの文章を読んで感じたのは、『そんなんあたりまえじゃん、考えるまでもないよ』という君たちの内心のつぶやきだ。そうじゃないか。」 何人かがこくんとうなずく。 「ところで、『メタ』ってことば知ってるか。」 「えーと、メタフィジックスとか。」 「おお、上等なことばを知ってるじゃないか。すごいな。それって形而上学って意味だよな」 ほとんどの生徒はぽかんとしている。 「メタっていうことばは『超』、超えるって意味だな。『ちょーうける』の『ちょー』じゃないぞ。あれは「とても」の言い換えで、「うける」を超えてるわけじゃないから。」 生徒の多くはまだぼんやりした顔をしている。 「夢の中で自分の葬式を天井の上から見たことのあるヤツはいるか?」 「きみわりー」 「たとえばそういうふうに、自分がいる、親がいる、そういう平面を超えて、上からその二人を見つめる視線を持つ、それが『メタ』だ」 なんとなくわかったという信号が生徒の顔に次々と点滅していく。 「人間には能力差がある、だから能力別教育しかない。ほとんどの人間がそう書いた。それがあたりまえだと感じたからだ。でも、それではたして思考力をアピールできるだろうか。それをあたりまえだと感じるのは自由だが、じゃあ、「オレはなぜそれをあたりまえだと感じるんだろう」と考えたか。そういう「メタ」の視点をもっていたか。そう自分に問うべきじゃないのか」 生徒の顔が徐々に真剣味を帯びてくる。 「なぜBを当たり前だと思うんだ?」 「うーん、それは能力別社会に生きてるからかな」 「そう、おそらくそうだと思う。能力別社会に生まれ、そこで育ち、その空気を肺の奥まで吸い込んで育ったから、Bをあたりまえだと思うんじゃないか。でも、考えてみろよ。それって必ずしもあたりまえとはいえないぜ」 きょとんとした生徒の顔を見ながら話を続ける。 「人間の能力には生まれつき差がある。これを放置するとどうなるか。能力の高い人間はそれに応じて高いレベルの教育を受け、低い人間は低いレベルの教育を受け、その差はだんだん開いていく。そして、高い能力の人間は社会において支配する側に回り、低い能力の人間は支配される側に回り、社会の階層化は進行し、平等性は損なわれる。だからこそ、教育においては平等が大事なんだ。こういう立論だって可能だろう。あるいは、能力別教育は暗黙のうちに自由競争を前提としている。そして自由競争の前提には機会の平等が存在すべきだ。すると、能力別教育の根底には「平等」が必要だということになり、優先順位としては「平等」のほうが上に位置する。こういう立論だってできるんじゃないか。その可能性を考えたか」 生徒たちは力なく首を振る。 「あたりまえとは逆のことを書けといっているわけじゃない。誤解するなよ。それっていかにもぼんくら教師のいいそうなことだけどな。そうじゃなくて、自分の「あたりまえ」を疑い、再検討しろ、っていってるんだ。それが考えるってことじゃないのか」 生徒の目が真剣になってくる。 「まあ、単純化していえば、Aの平等主義は日本型の教育、Bはアメリカ型の教育、そう思った人間も多かったんじゃないか」 生徒がうなずく。 「でもさ、それもあたりまえじゃないぜ。なぜアメリカはBを選んだんだと思う?日本はなぜAなんだ」 「それは、両国の価値観のちがいってやつじゃないですか」 「そうか?価値観の違いか?中身のない空っぽの便利なことばで答えたような気になるなよ。それは原因じゃなくてむしろ結果じゃないのか」 「じゃあ、どうしてアメリカはBを選んだんですか」 「やむをえず、じゃないの。しょうがなかったんじゃないの、Bを選ぶしか方法がなかったんだろう。だって、平等教育しようったって、あれだけ人種も民族も文化も違ったら、そもそもそんなもの成立しないじゃないか。平等にやれるんなら、平等にしたかもしれないよ、あの国だって。それに対して日本はある程度平等に教育することが可能だった。そういうことだったんじゃないかな。ある程度の同質性というのもあったかもしれないけど、学校に入る以前の社会的な教育が機能していたということもいえるかもしれない。」 「……」 「で、だな。みんなはBを選んで、こう書いた。アメリカで英語が苦手だった。でもベイシックな英語を教えてくれるクラスをとって、なんとか英語ができるようになった。だから能力別はすばらしいって。そう書かなかったか」 多くの生徒がそう書いたという顔をする。 「でもそれって厳密にいうと、能力別教育の良い点じゃないぞ。むしろ能力別教育の初期には低いレベルの人間は悲惨な目にあったに違いない。アホ、バカ扱いされてろくな教育も受けずに社会に放り出されたんじゃないかな。それで、これではいかん、なんとかせねば、と思って、その欠点を是正するシステムが作られた。要するに、みんなが助けられたのは、能力別教育そのものというよりも、能力別教育の弊害を克服するカリキュラムだったというわけだ。アメリカの教育に強さがあるとすれば、そういう試行錯誤の中から具体的で有効なカリキュラムをひとつひとつ作り出していき、それを蓄積する力にある。オレはそう思う。」 「それに対して日本はある意味では恵まれていた。最初からほぼ平等な教育を行えるという意味ではね。でもその平等性があやしくなってきた。スタートラインでラッキーだったぶんだけ、いったん平等性が損なわれはじめると、それを回復する手段が見つけられない。それが今の日本の現状じゃないか。詰め込み教育をやった、それじゃだめだった。だからゆとり教育にした、今度は学力低下が起こった、また知識重視に戻せ。これは試行錯誤じゃない。単に振り子があっちからこっちへ、こっちからあっちへ動いているだけだ。否定するものが順番に変わっているだけで、何も変わってないし、何も生み出していない。この二項対立の考え方の行きつく先はどこか。おそらくそれは「平等」の否定なんじゃないか。「平等」そのものを振り子の一方に据え、もう一方に「能力別」を置く考え方だ。平等じゃだめなんだ、これからは能力別なんだ。そういう声を最近、よく聞かないか」 「うーん、そういえばそういう話を聞いたことがあるような」 「ほんとうのことをいうと、先週の問題は実はオレが一部手を入れた。最初の部分は入試問題ではこうだったんだ。『教育に関して次のような対立する考え方がある。』オレは「対立する」をカットした。この問題の作成者自身がオレがさっきいったような「平等か能力別か」という振り子の論理に支配されていると思ったからだ。」 生徒の顔つきが変わってくる。姿勢が前のめりになってくる。 「ほんとうはこの問題だってあやしいんだぞ。みんなに「自発的に」Bを選ばせるために作られた問題かもしれないんだぞ。「あたりまえ」に流されてると、いつのまにか引き返せない地点まで連れて行かれることだってあるんだぜ。だから「考えなきゃいけない」っていってるだろう。」 生徒の態勢が前のめりから元に戻る。彼らが自分自身に問いを向けはじめたことが感じとれる。 へっぽこ教師の仕事はここまでだ。彼らが自ら問いを内部に向け始めさえすれば、その時点でこちらの仕事は終わっている。後はただ待つだけだ。でも、その後、話はさらに「ゼロサムの関係とは何か」、「ABははたしてゼロサム関係か」、「そうでないとしたら、AからBへ、あるいはBからAへ接近することは可能か」、「そのアプローチの方法は」と展開していく。この間、およそ60分。そして、最後の30分は「独創性を育てることは可能か、不可能か」というテーマで教室を二分して、ディベートもどきゲームを行う。 こうして、今年最後の授業が終わった。 授業を終えた後、私の頭には、ついに三度繰り返し読むことになった村上春樹訳「グレート・ギャツビー」の「あとがき」の一節が浮かんでいた。 「翻訳というのは、基本的に親切心がものを言う作業だと僕は思っている。意味が合っていればそれでいいというものではない。文章のイメージが明瞭に伝わらないことには、そこにこめられた作者の思いは消えて失われてしまう。僕はとくに本書においては、出来得る限り親切な翻訳者になろうと試みた。ひとつひとつの文章のブロックの意味を、日本語として少しでも明らかにしていきたかった。しかしもちろん何ごとにも限界はある。全力を尽くしたとしか、僕には言えない。」 ひとつの大きな仕事を終えた後の静かな感慨と、その仕事に対する揺るぎのない自信と、自らへの謙虚さと公正さの感じられる文章である。 仕事の内容は異なるけれども、そして、なによりもおそれおおいことではあるのだけれども、最後の一節をつつしんでここにお借りすることとしたい。 「もちろん何ごとにも限界はある。全力を尽くしたとしか、僕には言えない。」と。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
こちらから失礼します。本の栞さんのブログにコメントを書き込もうと思ったのですが、なぜか文字化けしてしまうみたいなので(おそらく原因はこちら側にあると思います)、ここに書き込ませてもらいます。
本の栞さんへ トラックバック、ならびに懇切なるご紹介ありがとうございました。自分の文章が、読んでいただく方々の持ち場でどのように受けとめられているかを知ることは、書き手にとってなによりの励みとなります。 (2006.12.10 07:36:36)
M17星雲の光と影さん
>本の栞さんのブログにコメントを書き込もうと思ったのですが、なぜか文字化けしてしまうみたいなので(おそらく原因はこちら側にあると思います) こちらでアクセスログを見たところ、このURLからのアクセスでブラウザの言語環境が「en(英語)」になっているものがありました。それが原因かもしれません。 (2006.12.11 01:43:04) |
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