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カテゴリ:本
カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」を読む。
不思議な作品である。読み終わって何かが残るというのは、おそらくイシグロ作品一般にいえそうに思うが、この作品はまた特別である。 作品は終始一貫、謎を含んだまま展開されていく。読み手はその謎がいつ解き明かされるのかと思いながら、読み進めることになる。しかし、その謎を解きほぐすような具体的な経緯の説明はついに最後までなされない。そして、静かに作品は終わる。 読み手は見知らぬ場所へ連れて行かれ、そこへ置いてきぼりにされる。そんな気分である。 ネット上でこの作品の読後感をいくつか読んでみた。その感想は大きく二つに分かれるようである。 第一のパターンは「訳知り型」。うむ、うむ、わしはほら、現代小説をけっこう読んどるから、こういう作品には慣れているわけよ。おどろかんよ。ぜんぜん。「わからないところ」、そんなもん、あるわけないじゃないか。うーん、なかなか興味深い作品じゃったなー。 あんた、ほんとにわかってんの。そう思わせる感想である。プロ筋や作家には圧倒的にこのタイプが多い。 第二のパターンは「わかりません型」。え、最後まで説明されてないじゃない、これっていったいなんなのー。わかんないわよー、これじゃ。でも、読んでてとっても面白かったし、印象に残った場面や会話もたくさんあった。でも、ほんとのところ、わかんないことが多くって、ちょっとすっきりしない感じ。 私はどちらかといえば、第二のパターンに好意的である。しいてどちらかに属せといわれたら、文句なくこちらに入る。小賢しい訳知り顔の奴らと同席するのはまっぴらである。 しかし、第二のパターンの難点は感想文が書きにくいということだ。考えてみると、「これでほんとにいいの?」と疑問形で作品に対するよりも、「これでいいのだ!」と断じたほうが感想は書きやすいに決まっている。でも、ここは、あえて、第二のパターンに沿って感想を書いていくことにしよう。 この作品の舞台はイギリスである。二人の娘をもうけた母親が主人公。彼女の生まれは日本である。下の娘との会話から作品ははじまる。そして、日本に住んでいたころの回想を軸に話は展開していく。回想の場所は長崎、時代は昭和30年前後、主人公である悦子はアパートに夫と二人で暮らしており、その当時、初めての子どもを身ごもっていた。冒頭にイギリスでの悦子の夫はイギリス人とされているので、回想の中に登場する日本人の夫は現在の夫とは別の人物であることがわかる。 長崎の廃墟の後に築かれた4棟のアパート。向こうには川が流れており、岸辺には古い一軒家がある。そこにある日、「あめりかさん」、つまり米兵の情婦である一人の女性とその娘が越してくる。回想の大部分は、この女性、佐知子と、その娘、万里子との交流が中心となる。 回想は具体的であり、会話は生き生きとしており、描写は平明でリアルである。その点ではわかりにくさはどこにもない。 登場人物はすべて日本人。しかし、原文は当然、英語である。訳はこなれた達者なものであり、昭和30年当時の女性の話しことばを用いて訳してあるので、ほとんど日本語で書かれた小説のように読める。しかし、忘れてならないのは、イシグロの頭のなかの彼女たちはすべて英語で話しているということである。(イシグロは日本語はカタコトしか話せない) したがって、まぎれもない日本人の会話でありながら、ところどころで「おやっ」と感じさせる箇所がある。それはてっきり本物だと思っていた観葉植物が実は作り物だったことに気づいて驚く感じに似ている。 登場人物の会話はしばしばすれ違い、価値観の違いから時には対立することもある。しかし、あと一歩のところで衝突は免れる。決定的なぶつかりあいはついに最後まで訪れない。この呼吸は独特である。おそらくこれはイシグロが日本人に対してもっている内的イメージの投影なのだろう。会話はすれ違いながらも決定的な破局は慎重に避けられ、最後にはお互いの顔に曖昧な笑顔がただよう。そういうイメージを彼は日本人に対して抱いているようである。しかし、日本人の会話のなかにただようきわめて微妙な異国情緒はこの作品独自のものである。うまくことばにできないが、読んでいるととても不思議な気分が味わえる。 そこに描き出される長崎の情景。私は長崎に実際に何度もいっているし、昭和30年代後半に長崎に家族旅行に行ったこともある。その目で見ると、ここに描かれているのはまぎれもなく、あの「長崎」なのである。ちょっとした坂道や路地、市内の描写の端々にそれを感じる。しかし、イシグロはわずか5歳で長崎を離れ、その後、この作品を書くまで一度も日本を訪れていないのである。5歳児の記憶はこれほど鮮明かつ具体的なのだろうか。私はそのイメージの確かさに驚く。 会話と情景描写に関する感想は以上だが、作品の内容についてはうまく感想をまとめる自信がない。 作品の描写があまりにも具体的でリアルなので、こういう読み方をすることが許されるのかどうか、よくわからない。しかし、私はこの作品はある程度、象徴的に読むべきではないかと思う。 たとえば、ここには様々な女性像が描かれている。家庭を守る良妻賢母型、女性としての幸せを追求する恋愛志向型、働きながら家族を支える自立型などなど。これらは個々の主人公の性格というよりも、女性のさまざまな側面をシンボリックに表現した存在と考えたほうがいいように思う。 一人一人の登場人物はいわばパレット上にある絵の具である。それらの組み合わせのパターンがいくつか作品のなかでは試みられる。しかし、最終的にそれらの絵の具を使って、作品を完成させるのは、読者なのである。だから、知らない場所に置いていかれるという読後の感想は、あながち的はずれなものではないのである。 だから個々の女性の性格がやや紋切り型であるとか、ステレオタイプであるとかいう批判は当たらない。これはいわば「原型」なのである。 男性も例外ではない。古い価値観をもった悦子の義父、元教員の緒方のせりふなどはやや教条的で、単純化されているきらいがあるが、それも欠点とはいえないだろう。 ここに描かれた人物も思考も情景も自然も、ある意味では実景ではなく、「原型」なのだ。これがこの作品を読む上でのひとつのカギとなるのではないだろうか。 イシグロの作品は一面できわめて平明で明快なリアリズムの描写の形をとりながら、作品の根底にきわめて普遍的な「神話」とでも呼ぶべき物語の祖型を感じさせるところがある。ひとつの土地、ひとつの国、ひとつの民族に収斂されることのない、普遍性をもった「神話」の世界。それがイシグロのこころの奥底にたしかに存在しているように思える。 そして、この作品のもうひとつの特徴は、「子ども」である。この作品における万里子の存在は印象的だ。それは徹底的に受動的、被虐的な存在であり、無抵抗のままに、環境に、大人に傷つけられ、損なわれる存在だ。 しかし、ここでも決定的な破局は慎重に避けられる。危機的な予感だけが全編に濃厚にただようが、しかしカタストロフは最後まで訪れない。 イシグロはインタビューで「自分は運命を受け入れる人間に共感を感じる」というようなことを語っていたように記憶する。運命をいやおうなく受け入れざるをえない存在、そうしなければ生きていけない存在、それは「子ども」である。私は「わたしを離さないで」のヘールシャムを思い出す。 受苦、受難のシンボルとしての子ども。 ひょっとしたら、そこにはイシグロの個人的な経験が投影されているのかもしれない。 この本を皆さんにお勧めするのは、実は少しためらわれる。 謎が残る?なかなか面白そうじゃない。そう感じられる方にはお勧めできそうだ。 「マルホランド・ドライブ」? 最高の映画だったわね。そう言われる方には絶対のお勧めである。 本命を手堅く、という信条の方には、まずは「日の名残り」をお勧めする。これは世界中どこへ出しても通用する堂々たる傑作である。今、世界文学全集を編むとしたら、この作品をはずすわけにはいかないだろう。 いや、手堅いだけじゃ物足りない、そうお考えの方には「遠い山なみの光」をお勧めしてもよろしいかと思う。 しかし、この人は、読み終えた後に、じつにいろんなものがこころに残る作品を書く人である。 カズオ・イシグロ。読めば読むほど不思議な作家である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.08.29 23:02:13
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