M17星雲の光と影

2007/09/05(水)20:22

物語る肉体

このところ体調もすぐれず、何をする気も起きないので、テレビでぼんやりと世界陸上を見ることが多かった。日頃のテレビ否定論者にあるまじき行為だが、CMの洪水と、「おっしゃー、きたー」とわめく男性司会者と、それを「バカが」と冷ややかに横目で見る女性司会者に耐え忍びさえすれば、時間つぶしとしてこれほどふさわしい番組もない。 陸上競技は筋力と心肺能力と技術力という三つの変数が複雑微妙にからまりあったスポーツである。一見単純に見えて、その奥行きは深い。 ただ筋力はともかく、心肺能力は外からはうかがいしれないし、技術を見極める目も持ち合わせてはいないから、いきおい選手の肉体を眺めることが多くなる。そして、陸上競技の魅力の多くは、実は「肉体そのものの鑑賞」にあるのではないかということに気づく。 考えてみると、われわれは日常の暮らしのなかで、肉体そのものから幾重にも遠ざけられている。 まず衣服がそれを覆っている。もしそれを剥いだとしても「裸体=性的信号」という刷り込みが肉体そのものを見る目を曇らせる。 わたしたちは日々の生活でほとんど肉体を見失っているのだ。 だからテレビの画面に映る陸上選手の肉体はとても新鮮に感じられる。 女子棒高跳びのイシンバエワ。あの鍛え上げられた上半身と下半身、そのバランス、とくに腰から背中にかけてのしなやかな筋肉の張りと見事な彎曲。ジャージを身にまとっていても、その肉体のすばらしさは衣服ごしにくっきりと見てとれる。 走る、跳ぶ、体を引き上げる、バランスをとる、手で体を突き放す、全身をしならせる。その一連の動作の反復によって作り上げられた肉体は、運動そのものの具現化である。彼女がただすっと立っているだけで、その肉体は一連のなめらかな運動をありありと表現しているように思える。 私は息を呑んで、その肉体を眺める。とくに斜め後方から見る彼女の体には、神々しいばかりの光が宿っている。 しかし、実況するアナウンサーは彼女のたぐいまれなる「美貌」と、華々しい記録達成の話しかしない。 なぜあの肉体そのものを見ないのか。せいぜい全身の表面積の1割か2割足らずの顔面の、それもパーツの配置に気をとられてしまうのか。私にはよく理解できない。 今日では、人間の顔は肉体とは無縁の単なるメッセージ・ボードと化している。「肉体」と言うとき、それはほとんど「首から下」の部分を指すことばになってしまった。 しかし、イシンバエワの顔は違う。贅肉を削ぎ取られ、頭蓋の骨の形をくっきりと浮き上がらせながら、筋と肉と皮膚がぴっちりと張りつめたあの顔は、シグナルの発信装置というよりも、やはり肉体そのものだ。彼女の顔は肉体であることを見失っていない。 最近の女子陸上選手は筋肉美を誇るタイプが多い。その中で女子200Mのアリソン・フェリックスは異色の選手だった。 多くの短距離の選手が持ち前の鍛え抜かれた筋肉を駆使して周囲に風を巻き起こしながら走るのに対して、フェリックスだけは「風にのって」走る。彼女の体の回りだけ空気抵抗が少ないのではないかと思えるほど、すいすいと風にのり、風を味方につけて、彼女は疾走する。 他の選手が足で大地を蹴って得た垂直方向の力をなんとかスムーズに水平方向の力に変換しようと腐心しているのに対し、フェリックスだけは最初から斜めに大地を蹴っているように見える。蹴りの力がそのまま前進力になっている。彼女の足元だけ大地が斜めに傾いているかのようだ。 草原を疾駆するチータ。彼女の顔も独特だ。なんともいえない「動物顔」をしている。ぎょろっとした目、つきだした口、紡錘形の頭。やはり野生動物を思わせる。 イシンバエワの肉体には周到に計算されたトレーニングの跡が鮮やかに刻み込まれているが、フェリックスの肉体はほとんど「素のまま」に見える。もりもりとした筋肉もなく、足も腕も腰も頼りないほどに細い。 しかし、その肉体は風をつかみ、風にのることができる。 才能といってしまえばそれまでだが、彼女の走りはいついかなる時でも力みを感じさせない。ただふつうに走っているようにしか見えない。そして、目を凝らすと、そのふつうの走りのなかに「よろこび」が宿っているのがわかる。肉体がよろこびながら風をつかみ、風と併走し、ついには風と一体となってゴールを駆け抜けていく。 よろこびの宿る肉体。 私はテレビのスイッチを消し、悲しみと哀れさの宿るなさけない肉体を引きずりながら、ずるずると寝床へと向かうのであった。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る