|
カテゴリ:その他
ずいぶんとブログの更新をさぼってしまった。多忙と体調の不具合が主な原因だが、この状態で書くとどうしても愚痴を垂れることになってしまう。それはできるだけ避けたいというのが正直な気持ちだった。でもストレスを溜めすぎるのも、かえって精神の鬱血状態を招いてよくないのかもしれない。
10日ほど前からすさまじい風邪に襲われた。ここ数年来経験したことがないほどの暴風雨であった。寝込んだのは2~3日だが、ほとんど意識が朦朧としながら出勤した日も4~5日あったので、ずいぶんと長引いたことになる。現在もまだ後遺症で苦しんでいる。体の芯はなんとか回復したが、あちこちの枝が折れたり、草がなぎ倒されたり、瓦が吹き飛んだままの状態である。まあ、そのうち時間が解決してくれるだろうとは思っているのだが。 38度を越える熱に連日、体をあぶられていると、体の鎖のもっとも弱い部分が壊れてくる。私の場合は鼻の粘膜に弱点を抱えているので、いま現在でも匂いと味がまったくない状態である。嗅覚と味覚が完全になくなってしまった。 以前にも同じ症状に陥ったことが数回ある。いずれも2~3週間ほどで回復したので、このまま感覚が戻らないこともないだろうが、感覚そのものの喪失は精神をきわめて不安定にする。そして、一時的なものであれ、感覚を失うことで、人は次のようなことを思うようになる。 たとえば視覚を失った人たちがいる。そういう人々は「暗闇」の中で日々暮らしているのだろうと、われわれは想像しがちである。 同様に、聴覚を失った人は「沈黙」の世界に住んでいる。そう考えがちだ。 しかし、自分自身の乏しい経験から判断しても、それは誤りだと思う。 私は今、味を失っているが、それは正確な表現ではない。私は味を失っているのではなく、「味を失っている」という状態をも失っているのである。 ある感覚が「ない」ということは、その感覚が「ある」ことを前提として初めて成立する。 視覚による世界は、光と闇の二つの要素を軸に構成されている。両者は一体のものであり、視覚をなくすことは、この二つを同時になくすことなのである。 暗闇とは光が存在しない状態を指す。したがって、「暗闇」という状態を「光」ということばを用いずに説明することは定義上不可能である。 沈黙も同様だ。沈黙とは音のない状態を指す。「音」ということばを用いないで「沈黙」を定義することはできない。 だから、光を失うということは、同時に暗闇を失うことを意味する。音を失うことは、沈黙を喪失することを意味するのである。 感覚を失うことは、当該の感覚刺激を失うことであると同時に、その刺激のない状態をも感知できなくなることなのである。 人は感覚を失うことによって、「ある」ことを失うとともに、「ない」ことをも失う。 おそらく五感が正常に機能している人間に、「ない」ことを失うという状態を想像することは困難だろう。 「ある」ことを失うこともたしかにおそろしい。しかし、「ない」ことすら感じとれないことはもっとおそろしい。この「喪失の喪失」は、人間に根源的な不安をもたらす。 愛する者を失った時、人は苦悶し、もがき、嘆き、わめく。 しかし、その時、その人を苦しめ、さいなんでいるのは、こころのなかにある「愛」だということに人は意外に気づかない。 もしも「愛」という感情そのものを失ったとしたら、そこには苦しみや悲しさ、嘆きそのものもなくなる。そこでは人は喜怒哀楽の感情そのものをなくすことになるだろう。 感覚は、「ある」と「ない」というシグナルを組み合わせて世界を認識するシステムである。 だから、単に感覚刺激が「ない」状態と、感覚システムそのものを喪失している状態は、まったく別のものなのである。 「ないことがない」状態を想像するのはむずかしい。 私は特定の感覚を永久に失った人の内面を思う。そして、そのこころのなかの風景を想像し、その喪失感の深さを思う。このような想像力は、今のような状態におかれない限り、おそらく発動することはなかっただろう。 そう考えると、人が「病む」ことにもなにがしかの意味があるという気がしてくる。 そう思いながら、われと我が身をなぐさめる日々なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|