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カテゴリ:その他
仕事で栃木に行く。
栃木の公立高校から講演の依頼があったので、その打ち合わせのためである。 栃木に行くのは公私ともに初めてである。この土地には今までまったく縁がなかった。栃木駅の近辺はさっぱりとした街並みで、蔵作りを模した商店が建ち並び、清らかな小川が流れ、そこに鯉が泳いでいる。歴史を感じさせる、それなりに瀟洒で、洗練されたところである。 だが、そこにたどりつくまでの鈍行乗り継ぎ旅がやたらに長い。快速も少なく、両毛線に至っては本数そのものが極端に少ない。東京方面からの電車がこれでは、車をもたない人間の足がこの地に向かうことはまずないだろう。首都近郊でありながら、なぜこんなにも交通の便が悪いのか。首都圏からの軍事攻撃でも怖れているのではないかと思われるほどである。 乗り換えで降りた鄙びた駅で周囲を見回すと、日本には「田舎」が減ってしまったとつくづく思う。このあたりはロケーションからいって、明らかに田舎なのだが、それは建物がまばらに建ち、農作地と空き地が多いというだけのことで、いってみれば「さみしい、うらぶれた都会」でしかない。 とんでもない田舎であるはずの場所に、とんでもなく短いスカートをはいた女子高生がたむろしている。これが都会を遠く離れた駅の平均的な風景ではなかろうか。 未成年による衝撃的な事件がしばしば「田舎」で起こるのはなぜか。そう考えたことがある。 テレビなどのレポートでその種の事件の現場周辺が映し出されると、そこにはこんもりとした森や田んぼや畑が広がっている場合が多い。 そのような場所でしばしば言語を絶した残虐な事件が起こる。およそ自然とのつながりを感じさせないような、きわめて「人工的」「人為的」な事件である。それはおそらく、そこに住む人々の意識と、周囲の環境とが既に「切れて」しまっているからだろう。とくに子どもに、その傾向が顕著であるように思える。 農作業に従事する人間は否応なく自然を相手にせざるをえない。自然はしばしば彼らの期待を裏切り、予想を覆し、目論見を台無しにする。どこかで自然の命令に従わない限り、仕事をつづけていくことができなくなる。そこにおける自然と人為との絶え間のないフィードバックが、ある種の「人格」を形成する。そのようにして、こころの中心に「土」を抱えた人間が出現することになる。数は少なくなったとはいえ、日本にもまだそういう人間類型がかろうじて存在している。 しかし、子どもの場合には、そうはいかない。夏の日中、たまたま農村を歩いていると、家々から聞こえてくる音の多くはテレビの音である。木登りをしていたり、そのへんを走り回ったり、泥をはね回して遊んでいる子どもの姿を見ることはほとんどない。彼らの脳へ入力される信号の多くは、テレビや携帯、パソコンが発信したものなのだろう。 このところ養老孟司の本をまとめて読んでいるが、その中にしばしば「現実とは何か」という話がでてくる。 現実とは何か。その人の脳が現実だと思っているもの、それがその人の「現実」である。 これが養老先生の定義である。 だから戦時中の人間にとって「国体」は現実であった。数学者にとっては数字の世界が現実であり、哲学者にとっては抽象的な思考が現実であり、企業経営者にとっては「ゼニ」こそ現実である。 つまり、脳がありありとした実在感、リアリティを感じるもの、それが「その人にとっての」現実なのである。 そういう話である。 いわゆる「田舎」に住む人間にとって、周囲の自然環境はおそらく「現実」として十分に認識されていないのではないだろうか。 とくに自然との直接的な接触、ないしは「対話」の経験の乏しい年少者にとっては、ほとんど動くこともなく、派手な活動もしない周囲の自然環境は、銭湯のペンキ絵か、芝居の書き割り程度のものとしか感じられていないのではなかろうか。 そこでは活発に動きまわるテレビの画像や携帯のサイトやパソコンの画面の方が「リアル」なものと感じられている可能性が高い。 そして、そこでは消費の欲望を刺激する信号が24時間休みなく発信されている。 身近な家族、友人とのどんよりとした人間関係、テレビドラマのセットとはかけ離れた周囲の環境。それらはメディアのもたらす情報への憧れを高めるとともに、自らの「現実」世界のリアリティを徐々に奪いとっていく。その結果、現実と非現実との転倒が起こる。非現実の情報のリアリティは高まり、現実世界のリアリティは減じていく。そこからもたらされるのは、現実への深い失望、不満、不充足感である。 自分の目のとどく範囲には「たのしい」ことは何もない。 そして、ふと家のまわりを眺めると、そこには農作業用のクワがあり、鎌があり、ナタがある。 彼ら、彼女らの手がそっとそれらに伸ばされる光景を私は想像する。 ひとたびそういう事態に立ち至ったとしたら、人目の少ない、監視の目の届きにくい田舎は、犯罪を犯すには好適な場所と化すだろう。 自然は田園にのみ存在するものではない。いくら大量の草木があったとしても、それを現実と感じるリアリティのないところには、自然は存在しない。自然は量によって規定されるものではないのだ。 四ヶ月ほど前、酒を飲んでほろ酔い気分で八百屋に入り、びわを1パック買ったことがある。細かいうぶ毛の生えたオレンジ色の肌をみていると無性になつかしくなったのである。母親の実家にあったびわの木。そこによじ登って実をもぎとり、皮を剥いてむしゃぶりついた遠い日の記憶がよみがえった。 家に帰ってそのびわを立て続けに4個食べた。その味はいささか水くさく、記憶の中の味覚には遠く及ばなかったが、なによりもその人肌を思わせる皮の感触がなつかしかった。 食べ終えて皿に残った皮と種をぼんやりと眺めていた。やがて種を4つほど手のひらに握って立ち上がり、ベランダに置いてあった何も植わっていない植木鉢の土の中に無造作に押し込んだ。 しかし、翌朝、酔いが醒めると、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。 毎朝の植物への水やりの際にも、そこに何かを植えたという記憶すら残っていなかった。植木鉢は水をかけられることもなく、そこに放置された。 しかし、一月ほどすると、その乾ききった土の中から鮮やかな黄緑色の芽が出てきた。褐色をした種の真ん中がぱっくりと割れ、そのなかから小首を傾げたみどりいろの小さなゆびが伸びてきた。 まさか芽が出るとは思わなかった。私はあわてて水をじゃぶじゃぶとかけて、鉢を目の高さまで持ち上げ、小さなみどりのゆびに眺め入る。 それから3ヶ月ほど経った。びわはのこぎり状のギザギザの生えた細長い葉を次々と出し、それが5枚、6枚と増えていく。背丈は20センチほど。丈夫そうな分厚いごわごわとした葉がベランダの隅で風に揺れている。 花屋で買い求めた他の草花ではそういうことはないのだが、このびわだけはいつも鉢を両手で持ち上げ、顔を近づけてしげしげと眺め入ってしまう。 小さくて、貧弱で、か弱く、たよりないけれども、これが今の私の「自然」である。 白いうぶ毛のような幼い葉を垂直方向に小さく突き出し、それが徐々に緑の色を増し、太く厚く広がっていくさまをみていると、そこになんともいえない「自然」を感じる。「自然」のリアリティを感じる。 ささやかだけれどたいせつなこと。びわの葉を見ながら、そんなことばをひとりつぶやいてみるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.19 21:09:26
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