M17星雲の光と影

2007/12/28(金)19:20

「る」の物語

机上の国語辞典をぱらぱらと繰りながら、ふと「どの文字で始まることばがいちばん少ないか」と考えた。 「ん」や「を」が極端に少ないことはいうまでもない。ただし、これは現代語の話で、「ん」はともかく「を」は古語辞典ではけっこうな数のことばが並んでいるはずだ。なにしろ「をんな」と「をとこ」を含んでいるのだから、両者の関係がそんなに簡単に片づくはずがない。すったもんだの末、多くの複合語が生まれているにちがいない。 その二文字を例外として除くとすると、はて、その次にくるのは何だろう。 そう考えて、「る」という文字が思い浮かんだ。手許の辞書で確認してみると、総頁数約1700頁の国語辞典の中で、「る」で始まるのはわずか4頁。かなりいい線である。しかもそのほとんどは「ルーキー」、「ルート」、「ルクス」などの外来語であり、「類」「涙」「累」などの漢字で始まる語を除いた、いわゆるやまとことばは極端に少ない。やまとことばであるかどうかは判然としないが、外来語と漢語を除くと、残るのは「留守」と「坩堝(るつぼ)」くらいではなかろうか。 にもかかわらず、「る」という文字は日本語の骨格を支えるきわめて重要なピースのひとつなのである。 たとえば、「移す」と「移る」という二語を考えてみよう。どちらも「移動する」という意味をもっているが、この二つはどう違うか。 「心を移す」という場合、そこには主体の関与が濃厚に感じられる。意識的・主体的なニュアンスが強く、「他の女に心を移すなんて」ということばはその主体の不実な行為をなじるきわめて強い非難の表現となる。 これに対して「心が移る」はどうだろう。「いやあ、そんな心を移す気なんてなかったんだけどさ、なんとなくいつのまにか心が移っちゃったんだもん、しかたないじゃないか」というように、こちらは主体の関与の薄い、どちらかといえば自然発生的、ないしは自然の推移に身を任せただけという、きわめて弱々しい弁解ないしは開き直りになる。 つまり、「す」は主体的・能動的、「る」は非主体的・受動的なニュアンスを帯びているというわけである。(以上は、大野晋氏の説を踏まえた説明である。詳細を知りたい方は、岩波書店「古語辞典」の巻末にある「基本助動詞解説」の冒頭部を参照されたい。大野氏はここで「す」を「人為的・作為的」、「る」を「自然展開的・無作為的」と説明されている。) さて、ここから「る」の旅がはじまる。 「す」は動詞に主体的・意識的なニュアンスを与え、「る」は自然の推移に従う無作為的なニュアンスを与える語尾である。やがて、これらは独立性を増し、助動詞の「る・らる」として用いられるようになる。これに対立するのが「す・さす・しむ」である。 自然発生的、無作為的という表現でおわかりの通り、これはきわめて日本的な物事のとらえ方である。「自分が積極的・意識的にやったわけではない。しかし、その場の雰囲気、流れでなんとなくそうなっちゃったんだよ(だから、オレのせいじゃないもん)」というのは、きわめて日本的な状況認識である。 文法用語を聞いただけでじんましんが出るという向きもおられると思うので、なるべく術語は避けるが、「る・らる」には「受身・尊敬・自発・可能」という四つの意味があるということは、学生時代の遠い記憶として覚えておられる方も多いだろう。 私も高校生の頃、「おぼえることが四つもあって面倒だぜい」と思った記憶がある。これに活用とか接続とかがくっついてくるから、次第に学習意欲が損なわれてくるわけである。 あの時、大野先生が教壇に立っておられたら、事態はもう少し違う方向へ展開したであろう。大野先生は、まず、「る・らる」の意味を「自発・可能・受身・尊敬」という順に並べる。この順番にはちゃんと意味があるのである。 そういえば、昔、何かの本で(たしか板坂元の「考える技術・書く技術」だったか)外国人に日本語を教える際に、「自発」を説明するのがいちばんむずかしいと書かれているのを読んだ覚えがある。「田舎に残してきた母親のことが思われる」。この「れる」を説明するのがむずかしいというのである。しまいには「いやあ、ついそこで雨に降られちゃってさあ」の「れる」はどういう意味かと聞かれたら、答えに詰まる。どうも「る・らる」(現代語ならば、「れる・られる」)は、きわめて日本的な言い回しのようなのである。 大野先生の説明に戻る。(といっても、自己流にきわめて乱暴にアレンジした説明だから、学術的に正確な説明は岩波の「古語辞典」を見てくださいね) まず、はじめに「自発」ありき。 自発とは自ずから何かが湧き起こるようにして出現することである。大地からにょきにょきと植物が生えてくる。ほっておくとあっという間に雑草が生い茂る(「『雑草』という草はこの世には存在しないんだよ」@昭和天皇。「草ちゃん、ごめんね」)。日本では、これはきわめて日常的な風景だったろう。やがて農業を生業とし、定住生活を営むようになると、「何ものかが自然発生的に湧き起こる」という現象は、自分たちの生の根底を支えるものとなる。(ここにも「る」が出てきた) それが「る」の世界である。その対極に能動的な「す」の世界がある。 さて、そういう「自発」の支配する世界で、何かが「できる」ということはどういうことを意味するだろう。「出来る」とは無から有が「出で来る」ことだ(博多近辺では今でも「できる」ことを「でくる」と言う)。自然からの収穫は、人間が技術や闘争によって主体的に勝ちとった獲物というよりも、むしろ自然の流れに従順に従うことによって、自然の中から自然に「出で来たった」ものととらえられる。むりくりに人為で何かをするのではなく、自然の流れに沿ってこつこつと作業することで自ずから望ましい結果が得られる。それが日本語における「できる」ということだ。 だから「自発」を意味する「る」は、「可能」の意味を帯びることになる。 では、「受身」は? これはあらためて説明するまでもないだろう。日本語における「受身」とは、自分がその動作に積極的に関与しないことを意味し、それはとりもなおさず、その動作が自然の成り行きとして成立することを意味する。 つまり「自発」を見守ることで何事かを成しうることが「可能」であり、その時、その人間の立ち位置はどこまでも「受身」的であるということだ。 じゃあ、「尊敬」は? 日本人にとって「尊敬」とは、ある人を「畏れうやまうこと」を意味する。 ここでいう「畏れ」はある意味では恐怖の感情に近い。「神鳴り」ということばが示すように、日本人にとって「神」とは敬意の対象であると同時に恐怖の対象でもあった。自分とは隔絶した存在、恐るべき存在を敬して遠ざける感情。それが「尊敬」である。 そういう存在に対して、ちっぽけな自分が主体的に関与することなど不可能だ。「尊敬」すべき対象の行為は、ほとんどそれが自然の運行ででもあるかのようにひたすら一方的に受け入れるしかない。「自発」的な推移を「受身」で見守る。それが「尊敬」すべき対象への接し方というわけである。かくして、「る」は「尊敬」の意を示すようになった。 以上が、日本語におけるきわめて重要なバイプレイヤー(おっと和製英語を使ってしまった)「る」の物語である。 日本語の歴史のなかで、小さな「る」の辿ってきた遠い道のりを思うと、うたた感慨におそわれるのである。(って、やっぱり「る」が多いな)

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