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M17星雲の光と影

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2008.04.11
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テーマ:本日の1冊(3684)
カテゴリ:
読まなければならない本というものがある。外部から強制されたわけではなく、あくまでも内面からの促しとして、いつの日か、この本だけは読まねばならない、そう思える本がある。

しかし、そう思うことで、かえってその本を開くことがむずかしくなってしまうこともある。読まねばならないという気持ちが気負いになって、自然にその本を開くことができなくなるのである。

私にとってV・E・フランクルの「夜と霧」(みすず書房)がそれに当たる。

ずいぶん以前にこの本を買ったまま、長い間、なぜかベッドの下の引き出しに眠らせていた。何かの折りにふと目に触れることはあるのだが、ちらっと見て、また引き出しを閉めてしまう。なかなか読み始めるきっかけを見つけられないでいた。

先日、城山三郎の「落日燃ゆ」(新潮文庫)を読み終えて、ふと「夜と霧」を読んでみようと思い立った。今ならこの本に自然に接することができるような気がしたのである。

息を詰めるようにして一通り読み、そのまま最初からもう一度読み直した。さらに新訳版も手に入れて通読した。都合、三回読んだことになる。それがもう一月以上前のことだ。

読み終えて、いくつかのことばが頭のなかで明滅したのだが、それらがうまく焦点を結ばない。そのまま放置しておいたのだが、なにかすっきりしないものが残るので、少しだけ心覚えを記しておくことにする。

まず霜山徳爾訳の旧版(後付には「1961年初版」とある)について。私は訳文そのものよりも、この本の構成に問題があると感じた。

この本は大きく三つの部分に分かれている。最初に、イギリス占領軍の戦犯裁判法廷の法律顧問だったラッセル卿の報告書による強制収容所の「解説」があり、次にフランクルによる「本編」が置かれ、巻末に40p程度の収容所の「写真と図版」が掲載されている。

結論からいうと、この本は本編だけで十分であり、「解説」も「写真と図版」も不要である。この二つには編集者(あるいは訳者の意向であったのかもしれない)の、許しがたい反人道的な行為に対する「告発」のニュアンスが色濃く出ている。もちろんアウシュビッツに代表される強制収容所の実態を強く「告発」すること自体はなんら非難に値するものではない。むしろ当然のことである。ただし、フランクルの本編は決して「告発」の書ではない。彼の筆致は客観的、抑制的、学術的であり、冷静に強制収容所における自らの体験を綴っている。そこには声高な告白調は微塵も見られない。そして、その声が静かであればあるほど、読む者の胸にその悲惨と暴力、無念と苦汁が切々と伝わってくる。そういう本なのである。その静かな語り口と、「解説」と「写真と図版」に見られる告発調の声音がうまく噛み合わない。そういう問題点がある。

そう思って、私は本編のみからなる新訳版を買い求めた。最初からこういう形で出すべきだったのである。しかし通読してみると、ここにもまた問題がある。池田香代子訳の新版では、日本語がわずかに「ゆるい」のである。「ゆるい」翻訳が悪いというのではない。むしろ、こちらのほうがわかりやすく、若者向きであるという見方もできるだろう。しかし、この本に関してだけは「ゆるさ」は致命傷になりかねない。なぜかといって、前途有為の心理学者が研究の夢を断たれ、新婚間もない妻と別々の収容所に送られ、そこで言語を絶する日々を過ごす。その体験を彼が「ゆるい」ことばで綴るなどということはおよそありえないからである。やはり訳文そのものは、霜山訳に一日の長がある。佶屈した部分がないわけではないが、文章はわかりやすければいいというものではない。やはり文章の「トーン」は重要だ。

だが、以上はあくまでも外形的な話にすぎない。本書の内容について感想を述べるべきなのだろうが、どうにもうまくことばにならない。この本は読む者に感想よりも、むしろ沈黙と内省を求めるもののようである。

ちなみに「夜と霧」という邦題もやや文学的な印象を与えすぎる嫌いがある。やはり原題通り「強制収容所における一心理学者の体験」とすべきであろう。

これほどの悲惨な体験に対して、人間はどのような距離をとればいいか。これがきわめてむずかしい。直接的な経験者にとってはその距離はあまりにも近すぎるし、間接的な経験者にはあまりにも遠すぎる。その狭間で経験の本質が伝達不能になる恐れがある。フランクルはそう考えたのではないか。そこで彼が取ったのは「学問」的方法である。一人の心理学者として自らの経験をなるべく客観的に描写する。そうすることによって直接経験から一定の距離を置き、間接経験者にも理解可能な表現が生まれる。つまり学問を媒介として直接経験者と間接経験者をつなぐことを彼は意図したように思える。そこには、自らの個人的経験をもあえて学術的資料として提供しようとする姿勢がうかがわれる。

最も印象に残ったのは、きわめて抑制的に述べられた愛する人への想いの部分である。

凍てつく早朝、氷のような風に吹かれ、彼は収容所から作業所へと監視兵に銃の台床で駆り立てられながら行進していく。かたわらにいる仲間の一人の呟きをきっかけとして、彼の頭の中には愛する人の面影が立つ。

「時々私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雲の後から朝焼けが始まっていた。そして私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中でつくり上げた面影によって満たされていたのである。私は彼女と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しを見るーーそしてたとえそこにいなくてもーー彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。」

「たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間はーー瞬間でもあれーー愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私に判ったのである。収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることと言えばこの上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態――このような状態においても人間は愛する眼差しの中に、彼が自分の中にもっている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。天使は無限の栄光を絶えず愛しつつ観て浄福である、と言われていることの意味を私は生れて始めて理解し得たのであった。」(p123~124)

その像はあまりにも明確で、鮮明で、リアルであり、ことばを交わすことすら可能であった。彼は次のように述べる。

「その時私は或ることに気がついた。すなわち私は彼女がまだ生きているかどうか知らないのだ!そして私は次のことを知り、学んだのである。すなわち愛は、一人の人間の身体的存在とはどんなに関係薄く、愛する人間の精神的存在とどんなに深く関係しているかということである。彼女がここにいるということ、彼女の身体的存在、彼女が生存しているということは、もはや問題ではないのである。愛する人間がまだ生きているかどうかということを私は知らなかったし、また知ることができなかった。(全収容所生活において、手紙を書くことも受け取ることもできなかった。そして事実妻はこの時にはすでに殺されていた)」(p124~125)

かっこの中に付された最後の一句に私は息を呑む。愛の対象はその時、身体を喪失し、精神的な像へと昇華、結晶化している。それにもかかわらず、その像はあまりにも鮮明である。

私はことばを失う。このような描写にどのように対処すればいいか、よくわからなくなる。沈黙と内省に沈む以外の方法が私には見つからない。

フランクル自身が手を入れた新版においては、かっこの中に書かれた最後の一句はなぜか削除されている。

本書の最後では、収容者の解放後の心理状態についても述べられている。

「人間は数年来考えられる限りの苦悩の深い底に達したと思っていたのである。しかし今や彼は苦悩というものが底無しのものであり、何らの絶対的な奥底がないものであることが判ったのである。そしてもっともっと深く下って行くのを見るのである。
 すなわちわれわれは収容所の人間を心理的に維持させるには、未来におけるある目的点に彼を指し向けなければならないことをすでに述べた。そして人生が彼を待っていること……たとえば一人の人間が彼を待っていること……が必要だと述べた。ところが今若干の人間は、もう誰も待ってはいないこと、を知らざるを得なかったのである。」

「彼が収容所で唯一の心の拠り所にしていたもの……愛する人……がもはや存在しない人は哀れである。また彼が無数の憧憬の夢にゆめみた瞬間が本当に味わわれたのに、彼が描いていたのと全く異なって体験された人は気の毒である。彼は市電に乗り、それから彼が数年来心の中で、しかも心の中でのみ見たあの家の所で降り……彼が多くの夢の中で憧れたのと全く同じように……呼び鈴を押し……だが、ドアを開けるべき人間はドアを開けないのである……その人はもはや決して彼のためにドアを開けてくれないであろう……」(p203~204)

「彼」という三人称がこれほど痛切に響く文章を私は他に知らない。

「夜と霧」は私にとって読まなければならない本であった。そして、読み終えた後、これからも繰り返し読みつづけなければならない本になった。

私の拙い感想はこの一句に尽きるのである。
 







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Last updated  2008.04.11 20:50:52
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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