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存生記

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2005年09月02日
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アラン・コルバン、『レジャーの誕生』(渡辺響子訳)、藤原書店、2000年。

 レジャーの歴史に関する、コルバン以外の論者も参加した論集になっている。

 レジャーが誕生するには、いろいろな切り口が考えられる。宗教的な暦の時間から近代的な計測できる時間へ。時間をつぶすという「余暇」から各種の産業によってプログラム化された「レジャー」へ。労働時間は10時間、8時間と縮小していくなかで、暇をどうするかという問題に個人も集団も直面する。

 一口に「忙しい」「暇だ」と言っても農業と工場ではその意味合いが違う。工場の忙しさは逃げ場がない。時間と生産性に追い立てられている。農業は、家畜の世話などやることが一日中あるが、追い立てられるような厳しさはない。そのかわり天候によって収穫が左右される。ペンギンたちの忙しさに似ている。

 工場の過酷な労働は、神経の疲労という難題を引き起こし、そこからスポーツが奨励されるようになったと本書に書かれている。たしかに精神的疲労は肉体的疲労によって相殺される面はある。他方で、記録の追求のように、肉体を酷使する面もスポーツにはある。こっちのスポーツはマスメディアとプロスポーツ産業の発達によって、ドーピングなど行くところまで行ってしまい、疲労の治療という要素は見る影もない。

 ナチスはレジャーを国民に推奨した。とはいえ労働者はいきなりヴァカンスを手にしても何をして良いのか途方に暮れる。ブルジョワのようにオペラだ観劇だというわけにはいかない。ああいうものはそれなりの教養がないと楽しめないからだ。そこでナチスは、さまざまなスポーツプログラム、バイロイト音楽祭の割引チケット、アルプス旅行などのサービスを提供する。労働からしばし解放され、「自然への回帰」を果たすことによって、社会的地位に関係なくすべてのドイツ人が文化的生活に参画するゲマインシャフトをナチスは作ろうとした。それによって一体感が高まり、労働への意欲が喚起され、生産性も維持することができる。他方で、強制収容所の囚人たちには過酷な労働生活だけが準備されていたわけだが。

 18世紀末から血筋や推薦ではなく個人の功績が物を言う世界が到来する。各人は自分の力量を他者に示さなければならない。暇であることは、この社会闘争から脱落する危険を意味する。余暇を労働や自己啓発のために利用したり、社会的威信を他者にアピールする機会にさくケースが増えてくる。活動しないこと、役に立たないことは苦しみとなる。仕事中毒者が結局のところ「大好きな仕事」に戻らざるをえないのは、こうした歴史的背景や時間意識の変質があるからである。スケジュールを旅行会社が管理してくれる慌ただしい旅行から帰って、やっぱり我が家が一番と感じ、行ってきたことだけが意味を持つレジャーが増えてくる。
 
 労働者の質を落とす危険のあるものは管理や統制の対象とされた。まずは酒である。酒場、カフェ、ダンス。次に通俗的な読み物、映画、テレビ。この本では取り上げていないが、アラン・コルバンの『娼婦』で示されているような悪所。生産性の世の中で、レジャー産業が生産性を高めるために奉仕する。

 わざわざ混む時期にレジャーに出かけ、へとへとに疲れて、また仕事へ戻っていく人たちには、それなりの歴史的、社会的要請があるということがわかる。規律や統制、個人の威信や虚栄、倦怠や無為への恐怖がそこには作用している。「釣り」や「サッカー」などの記述も興味深い。また日本ではどうだったのかという点も気になるところである。システムがメンバーに要求する勤勉の要請は、日本ではより強かったのではないのかと想像されるからだ。





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最終更新日  2005年09月02日 16時37分06秒



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