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存生記

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2008年06月20日
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副都心線に乗る。西早稲田駅のあとにまた西早稲田駅のアナウンス。さては間違って二つ作ったか。おまけに朝のラッシュでもないのに停止信号で止まったりしてドタバタしている。空いているのがありがたい。

渋谷駅で降りて地下道をひたすら歩き、立体ロールプレイングゲームと化した空間から地上に上がる。Bunkamuraでパトリス・ルコントの「ぼくの大切なともだち」を観る。ダニエル・オートゥイユ主演。知り合いの前で「親友がいる」と見栄を張って嘘をついてしまったことから、即席で親友を作らなければならなくなった男の悲喜劇を描く。

男は親友になりそうな友達のリストを作成して一人ずつ訪ねていくが、けんもほろろにあしらわれる。敏腕の美術商として活躍しているが、性格は傲慢で思いやりのかけらもないからだ。そこでたまたま知り合ったタクシーの運転手の青年を親友に仕立て上げることを思いつく。この青年、実に感じのいいタクシーの運転手で、テレビのクイズ番組に出ることが子供の頃からの夢。せっせと雑学の知識を蓄えている。

階級社会のフランスでは特にそうだが、美術商とタクシーの運転手では違いがありすぎる。しかも年まで離れている。そのために当初は親友になろうとせずに、彼は運転手から「感じのいい人になる方法」のレッスンを受ける。これだけ有能なビジネスマンなら営業には優れているのだろうが、友達づくりとなるとうまくいかないのがおかしく意味深である。金や地位の力で寄ってくる人たちはいるが、親友となるとうまくいかないのだ。彼が戯画的なほど不器用なので反感を買うキャラであっても最後には共感できるわけだが。

年をとればある程度やむをえないが、仕事上の付き合いが増えて、友人なのか仕事仲間なのか見分けがつかなくなっていく。学生時代の友人は「純粋な友人」かもしれないが、かといって学生の頃のようにはいかなくなっていくし、大人の社交という要素が強まる。この映画はそこの間隙を突いて、ちょっと考えさせるドラマに仕上げている。

モノと金の効率主義の世の中にあって、利害を超えた関係というのは果たしてありえるのか。キリスト教の威力がまだ残っているのか、フランスではまだこういったテーマが通用するようだ。とはいえ親子や夫婦でさえ聖域でないことは、フランスも日本も変わらない。美術商が運転手を親友かどうか試す場面がある。汝、人を試すなかれ、である。これで二人の関係は完全に壊れたかに見えるが、そこは映画だ。いかにして修復するのか、それにはいかなる代償が要求されるのかが描かれてゆく。

他方で、傲慢な美術商のスキルとしての知識と純朴な運転手の道楽としての知識との対比もなされている。前者は人を出し抜くための正確無比な知識、後者は自分の好奇心を満たし人を楽しませるための知識である。美術商の方の知識の切れ味は鋭く、クライマックスのクイズ・ミリオネアーで役立つことになる。結局、どちらの知識もテレビが介在することで賞金や虚栄心をもたらすことになる皮肉も忘れていない。上流階級らしくテレビなんて観ていないと言う美術商がテレビ番組に電話出演した後、「親友」が歓喜するテレビのスイッチを切る場面がある。真っ暗な室内のまま、しばし何やら考え込んでいる。短いが、味わい深いシーンである。

クイズ・ミリオネアーで司会のジャン=ピエール・フーコー(フランスのみのもんた)が出てくると前の列のフランス人の客たちがどよめいていた。日本で映画館とはいえ、ここで母国の有名なタレントに出くわすとは思っていなかったのだろう。こういった反応こそテレビという大衆メディアの影響力を端的に表している。

無神経で傲慢な美術商も感情移入できるようなキャラに変貌して、後味は爽やかに終わる。芸達者な演技だけでなく、「星の王子様」、友情を描いた古代ギリシャの壺といった小道具も効いている。友愛にしても恋愛にしても、白血病だなんだと持ち出さずに、こうやってひねりの効いたタッチで描いてもらえると素直に感情移入できる。





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最終更新日  2008年06月20日 23時32分18秒



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