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存生記

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2010年01月20日
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「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン 東洋と西洋のまなざし」を写真美術館で見る。すでに有名な写真ばかりで既視感がある。背後でおじさんが美術館の職員に「これはどこが決定的なんですか」と一枚一枚尋ねている。職員は粘り強く説明している。声が小さいので説明は聞き取れない。「そんなことは御自分で考えてください」と言いたくなるが、職員の立場からはそれは言えない。カルティエ=ブレッソンなら「この瞬間美が君にはわからないのか」と問いつめたかもしれない。

 わかる人はわかる。わからない人にはわからない。写真とは、美とはそういうものである。だがそういう紋切り型を持ち出して思考停止してしまうのはよくないのかもしれない。イメージは説明できる部分は言葉にしようと努めるべきなのかもしれぬ。「この構図がなんとも・・・でして」「この人物の表情がじつに・・・でして」と答えたとする。それでも納得せずに「どうしてこの構図が決定的なのですか」と重ねて質問されたとする。そうなると、「決定的」という問題について徹底的に考えなければならないということになるだろう。一緒にコンタクトシートも展示されていたが、なぜこの一枚が選ばれたのかという写真の芸術性の根幹に関わる問題に抵触することになるだろう。

 「木村とカルティエ=ブレッソンはどういった仲だったのですか」「両者の違いは何ですか」という質問ならば、職員は労せずに答えられたかもしれない。素人の素朴な質問ほど玄人泣かせなものはないというが、まさにそんな決定的瞬間を目撃したのだった。

 そのまま地下に降りて「躍動するイメージ。 石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」を見る。アニメの発生から、抽象絵画と抽象アニメまで概観できる。カンディンスキーが特にそうだが、五感を統合するような宗教的な感覚を希求するうちに抽象へと流れ着く過程というのは美術史ではよく知られているが、アニメとの関係というのはあまり知られていなかったのではないか。

ただし、アニメではフォルムと音の戯れを単に実験的に追求しただけの作品もあるだろうから、どこまで美術史の文脈を適用していていいのかという問題はある。映像作家によって形而上学的な関心も変わってくるだろう。またアニメーションをメディアアートとして美術史に組み込むには、アニメ史にメディアアートをどこまで取りいれていいのかという問題にも関わってくる。

石田尚志の作品は、大きなスクリーンを使った作品が印象深い。映写機が写し出す映像というメタな視点を使いながら、海を背景に有機的なパターンの増殖と矩形のリピートが入り混じって、摩訶不思議なイメージを作り出してゆく。図録に記されたエピソードにあったが、なんでも「気合い」という言葉が大好きだそうで、「気合い」の英訳を戯れに尋ねたところ「永劫回帰」という言葉が返ってきたそうである。「気合いダ!気合いダ!」が口癖の元プロレスラーがいるが、それとは違った意味で永劫回帰というニーチェの概念に「気合い」の精神的な意味合いを感じ取ったのだろう。かとおもえば、バッハのフーガをアニメにした作品もあった。楽譜という記号的な抽象をアニメというフォルムの抽象に翻訳するのだ。こういうクラシックの「ミュージックビデオ」は見ても聞いても楽しいものだ。





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最終更新日  2010年01月21日 01時19分18秒



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