カテゴリ:ちょっと考えたこと
ハレ、とケ、みたいな言い方をすることがあります。
ハレ、とはまさによそゆきで、 ケ、は自宅用、みたいな意味で。 よそゆきは「誰かに見せるため、披露するため」みたいな感じだし、 自宅用なら「誰にも見られる心配もせず、心からリラックスできる」という感じ。 誰にでも、ハレとケはあるんだろうとは思うのですが、それが 生活のメリハリ、みたいな効果をもたらすならいいのかもしれませんが 実際はどうでしょう。 ハレとケの差が多かったりすると、またその 「ケ」の部分を誰かに見られることへの抵抗だとか 「ハレ」の部分をより、誇大して見せたかったりすると何かと リアルな自分を飾って、大きく見せたい欲求にかられがちです。 外にはでかけない自粛生活。メインは自宅。 外からの刺激も、そうそう求めることもできないし… 外に出られないだけで時間はたっぷりあると、自分の家の中に意識が向きます。 自分の中の、「ハレとケ」 *** 私自身の意識の中にあるのですが、私はハレの場として家の外での立ち居振る舞いに意識が行きがちで、言い方を変えると 「人から見えないところなら、多少のことはまあいいか」 というような面があります。つまり、外面がいいんですよね。 それのよし悪し、は置いておいてもそういうのが自分の子たちにも受け継がれているなと感じることが最近多くて、なんだか落ち込むのです。 誰かに見られているからちゃんとする。 じゃあ、見られてないならどうするの? もちろん…人目というのは人の生活に一定の役割を果たしていたりもすると思います。 それによって多少、行いを繕ったりすることもあるし襟を正そうと思うきっかけになったりもするから、悪いことばかりでもないのだろうと思います。 それでも、そちらに偏りすぎると自分の生活と言うのか、誰かが見ないならどうでもいいのか?となっていく。 本当はそういうものではない、なぜなら 誰かの目をごまかせても自分の目はごまかせないのですから。 「自分を大切にする・いたわる」 ってなんだろう?と みたいなことを最近考えることがあります。 誰かの前にいるときにだけ、いたわっているふりをしても仕方がない。 そもそも「いたわる」って何だろう? ずっと私がないがしろにしていた部分もあるなあと思うのです。 誰が見ていようが見ていなかろうが、それが自分の行動、それも 正しいと言われたり正しくないと言われたりしそうなものならなおのこと、 その動機が左右されるのはあまり良くないことなのかもしれない。 誰かが見ているから、(やる、やらない) も見ていないから(やる、やらない) そういうことが指標でいいのかな、と。 それを指標のメインにしている限り、動機のきっかけは自分ではない他の誰かなんじゃないかと。 自分の行動のかじ取りをするメインが、自分じゃない誰か、なら。 自分の行動は、何によるもので、どこへ行くのか。 それがすっかり、分からなくなってしまうんじゃないか。 でも、こういう思考の習慣みたいなものは長年のいろいろから自分に染みついていて簡単には離れてくれそうにありません。 家の片づけ一つ、「誰かが見るからやる」のか「自分が快適にすごすためにやる」のかで動機の主体がずいぶん違ってくるのかもしれない。 誰が何と言おうと、自分には信じるものや好きなものがありそれは揺るがないし、変える必要もない。 そういうものが、ふと一人になったときや自分自身に戻ったときに自分を助けてくれ支えてくれるものであるはずなのです。 そしてそれは、誰かのための体裁を取り繕った結果のものではあまり意味がない。 なぜなら「それが好きかどうか」については、本当のところは自分しか分からないからです。 家族や友人や身近な人、じゃない 「自分」が好きなのか。必要としているのか。 それを自分にごまかすことなんてできないはずなのです。 そういう意味で、誰かの手前どう、とは別に、 誰が何と言っても自分はこれが好き。がそばにあって生きるためには、 過度な「ハレとケ」に自分がコントロールされないことが実は大事なんじゃないかなと最近、思い始めたところです。 そのためには…誰も見ていない目の前のことや身近なことを大切に。 奇しくも、ちょうど今は不要不急の外出はしないような令が出ているご時世。 外の世界とは一線を引いて、自分個人のこと、プライベートな暮らしに向き合う、絶好のチャンスなのかもしれないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.03.29 15:18:47
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