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退職女性教職員の会 宮城白萩の会中央支部が発行する戦争体験記
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2008.12.14
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M小学校での語り部活動(12/9)から その2

 12/12の日記、岡村朋子さんの「引き揚げの体験」に続きまして、同じく授業で割愛されたもう一人松本ムネ子さんの原稿を御紹介したいと思います。

                      おばあさんの願い
                                                 松本ムネ子

 私は昭和十年生まれなので、昭和二十年の終戦の時は十才で国民学校(小学校)の四年生でした。
 生まれた所は県境の山元町坂元で農村地帯でした。戦争中は空襲も受けず、三月十日の仙台空襲を二階から眺めた事を覚えております。

 その頃の私の一番の関心事は食べ物のことでした。父は長男で十二人兄弟でしたが、生存していたのは八人でした。私と四才年長の叔父達も一緒にくらし、大家族で母は随分苦労したようです。農家ではなく役場職員だったので食べ物の調達は大変でした。

 過日話を聞いたように、お米の配給はあまりなく、名取・高舘の母の実家へお米をゆずってもらうために増田駅から歩いて高舘へ向かい、帰りは背中に背負ってまた歩いて帰り、混んだ列車に乗ったことが思い出されます。

 そのようにして手に入れたお米は貴重で、白い大根を細切りにして、おかゆに入れ、ちょっと見は白ごはんのように見えました。一口食べると大根くさく味もないので、今なら食べられない位まずいものでしょう。でも、いつも空腹の私には競って食べたものでした。
 それに、青年期の叔父たちには多く分けられ、羨ましくて「早く大人になりたいなあ」と思ったものです。

 三才年下の弟はもっと大変で、ランドセルはズック地で作った手製のもの。カボチャばかり食べているので手のひらはまっ黄色になったほどでした。大人になってからは「カボチャはおことわり」とほとんど食べないようです。

 こんな食糧難を過ごして大人になり教師になりました。M小を最後に三十四年の教師生活を送りましたが、退職して「おばあさんから孫たちへ」の本にかかわりました。そして、戦争の悲惨さ、平和の大切さを訴えてきました。これからもこの運動にかかわり、みなさんの両親や子ども達に語り継いでいきたいと思っております。





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最終更新日  2008.12.14 10:26:25
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